「大井の外回りには夢がある」 - 2007年JBCスプリント・フジノウェーブ

京浜運河の向こうを走るモノレール

「アツシ、大井の1200は面白れぇぞ」

築地市場に勤めていた時分のこと。小さいころからよく知る兄貴分に大井に誘われた。もちろん、大井にはそれ以前から何度も足を運んでいたが、築地で働くようになると、地方競馬を勧められる回数が増えた。早朝から働き、土曜日も仕事がある築地では、地方競馬を愛する者が多い。平日の午後がゴールデンタイムにあたる仲買人たちにとって、その時間に楽しめる公営競技はキラーコンテンツなのだ。

兄貴分がいうには、大井の1200は外回りで行われるので、直線が長く、逆転も粘り込みもあって、スリルが違うという。確かに大井外回りの直線は386mもあり、中山競馬場より長く、南関東でもスケールが抜けている。他場ではスピードで押し切れる快速馬も大井の1200mで最後の最後に脚が上がる。そんな光景は日常のこと。ちょっと届かないかと感じても、大井1200では諦めてはいけない。ジリジリと前と差を詰めるにつれ、粘る先行勢のスタミナが尽きていき、ゴール前で体勢がガラリと変わる。実況アナウンサー泣かせのもつれたゴールシーンが目の前で繰り広げられ、直線のスケールにしてはちょっと小さいビジョンに映るスローモーション。目を細めてハラハラしたこと数知れず。京浜運河の向こうを走るモノレールがさらに遠のき、放心するのは今も変わらない。

「大井の外回りには夢がある」

そんなことも兄貴分は告げた。大井競馬場の馬券しか買わない年季が入った馬券野郎の兄貴分が、その死に涙した馬がいる。その名をフジノウェーブという。

そして4度目の大井JBCがやってきた

笠松でデビューしたフジノウェーブが大井競馬場にやってきたのは、2005年8月黒潮盃だった。中央の500万下を勝ち、4連勝中の船橋出川龍一厩舎のドラゴンシャンハイ、同じく船橋川島正一厩舎のマズルブラストは羽田盃、東京ダービー3着、そしてこのレースを制し、のちに帝王賞を勝つボンネビルレコードがいた。フジノウェーブは逃げて6着に敗れた。南関東勢は慣れている大井の外回りが立ちはだかった。

その後、大井競馬場に転厩したフジノウェーブは3連勝でじわじわとクラスをあげていく。そして4歳5月コルヒドレ賞から5歳4月マイルグランプリまで10連勝で重賞ウイナーへのぼりつめた。この間、外回り1200mはウインタースプリントと東京シティ盃の2度出走した。1800mから1600m、そして1200mと距離を問わず勝ち続けるなかで、次第にフジノウェーブは自分の武器を磨いていった。

米国ブリーダーズCを範とするJBCがはじめて開催されたのが大井競馬場だ。2001年のこと。クラシックはレギュラーメンバーを、スプリントをノボジャックが制した。以来、大井開催03年、04年も含め、JRA所属馬がタイトルを独占していた。地方競馬の祭典といっても、交流競走に出走するJRA勢の壁は分厚い。超小回りの名古屋でも、コーナーが独特な川崎でも地の利を生かした地元勢は歯が立たなかった。

そして、2007年、4度目となる大井JBCがやってきた。1200mも2000mも外回りで行われ、力勝負になりやすいため、ことさらJRA勢が強い。そこに出走したのがフジノウェーブだ。連勝が止まったさきたま杯、帝王賞と交流重賞2連敗。やはりフジノウェーブでもJRA勢には勝てない。7番人気はそんな予想の裏返しでもあった。メイショウバトラーはこの年、地方交流重賞4連勝で前哨戦の東京盃も2着と申し分ない戦歴であり、その東京盃を制したリミットレスビッド、プリサイスマシーン、アグネスジェダイと中央勢がズラリと上位人気に並んだ。

「差してくれ、フジノウェーブ」

秋の夜空に鳴り響く特別なファンファーレ。いつもの大井競馬場とは明らかに違う雰囲気が高揚感を生むと同時に、どこかよそ行きな空気に包む。やっぱり、JRA勢なんだろうな。兄貴分はこのとき、そんな気後れした気分だったという。ここは俺たちの大井のようでそうではない。交流重賞、特にGⅠ当日特有の空気感は今でも慣れない。

そわそわした気分のまま、ゲートが開いた。アグネスジェダイ、プリサイスマシーンが先手を奪い、船橋ナイキアディライトが食い下がる。外からリミットレスビッド、メイショウバトラーも前へ。好位インのポケットに白い馬体と派手な星印の勝負服がいた。フジノウェーブだ。JRA勢と互角のスピードを見せ、なおかつ大井外回りの絶好ポジションをとっていた。アグネスジェダイ、プリサイスマシーンに懸命についていくナイキアディライトの後ろ、フジノウェーブは追っつけながら走る。ちょっと離された。そんな感触が兄貴分の頭をよぎった。

しかし、半径の大きな外回りのコーナーを利用して、フジノウェーブは外へ出てきた。御神本訓史騎手はまだやれると感じたのだ。だからこそ、フジノウェーブをこれ以上ないタイミングで外へ持ち出し、前を行くJRA勢をつかまえに行く形をとったのだ。大井の外回りは長いぞ。粘るアグネスジェダイ、プリサイスマシーンは競り合いながら、スタミナを失っていく。外からやってきたフジノウェーブは着実にその差を詰めていく。競馬場の歓声がフジノウェーブに集約する。7番人気の伏兵だ。みんなが単勝を持っていたわけではない。そんなものはもう関係ない。それがフジノウェーブの背中を押す観衆の答えだ。そう、ここはやっぱり俺たちの大井なんだ。地元大井のフジノウェーブを応援しないわけがない。

「差してくれ、フジノウェーブ」

兄貴分も最後は祈っていた。声は出なかった。祈るしかなかった。その瞬間を夢見ても、叶うことがなかった。だが、それが叶った。「大井の外回りには夢がある」そのとき、兄貴分の脳裏にこの言葉が浮かんだ。フジノウェーブが俺たちの夢を叶えた瞬間だった。

ボンネビルレコードとの共演

地方所属馬初のJBC制覇を成し遂げたフジノウェーブは、その後も大井で走り続けた。大好きだった東京スプリング盃は第1回から第4回まで4連覇した。引退した翌年からレース名はフジノウェーブ記念に変わった。毎年、春にフジノウェーブを偲ぶ機会があり、大井のファンはいつも彼を思い出す。フジノウェーブは引退した秋、2013年10月23日に不慮の事故でこの世を去った。大井競馬場の誘導馬を目指す矢先のことだ。奇しくもフジノウェーブがはじめて大井競馬場を走った黒潮盃を勝った大井のスター・ボンネビルレコードが誘導馬デビューしたばかりだった。

今はもういないが、かつて大井競馬場にはボンネビルレコードがいた。私は競馬場に着くと、まず本馬場入場を見に行き、ボンネビルレコードに挨拶した。「ボンさん、元気かい」そっと話しかける。ボンネビルレコードはいつも、誘導の仕事を終え、帰っていく際、軽く駆けていく。軽やかで力強い、現役時代を少し思い起こさせるアクションが楽しみだった。その横にフジノウェーブがいたら……。何度そう思ったことか。夢をひとつ叶えてくれたフジノウェーブは、もう一つの夢を叶えてくれなかった。なんてちょっと言ったら、欲張りか。

私は移転騒動とともに築地市場を去り、活動時間が人並みになり、少し大井競馬場から遠のいた。かつて、築地市場の仲間たちと楽しんだ大井の光景を懐かしく感じるほど、離れていった。人生がさらに転がっていき、生活リズムも変化したせいか、最近、また大井競馬場に顔を出すようになった。かつて明るかった場所が暗くなり、明るかったところがさらに眩くなるなど、大井競馬場も年を重ね、変わっていた。だけど、目の前の競馬はあの頃と同じだ。外回りは難解で、ゴール寸前で着順がひっくり返る。

「大井の外回りには夢がある」

ちょっと酔っ払った兄貴分のクシャクシャな笑顔が浮かんできた。

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