[連載・馬主は語る]粘り勝ち(シーズン2-30)

「よく落とせましたね」と皆に言われ、冷静になって考えてみると、たしかに種付け料300万円(当時)のルーラーシップを受胎したスパツィアーレを550万円(税込み)で落札できたのですから、良いお買い物だったと思います。なぜスパツィアーレは激しい競り合いにならなかったのでしょうか。

祖母に名牝ステラマドリッドがいる良血ですが、母ステラプラドは未勝利のまま引退しており、その産駒も走っていなくはないのですが、ブラックタイプがついているわけではありません。セレクションセールに上場できる条件は満たしていませんね。それから、開腹手術をした経歴があることは明記されていましたが、その後も問題なく受胎して、仔を産んでいますから、それほど気にすることはないと思われます。その他、種牡馬としては晩年を迎えつつあるルーラーシップの仔が腹にいることが嫌われたのか、それともハーツクライ、シンボリクリスエスと重ねられてきている重厚な血統が避けられたのか分かりませんが、ネガティブ要素として思いつくのはそれぐらいです。

そうしたネガティブを考慮したとしても、550万円で落札できたのは、セリの盲点になっていたということが大きいと思います。他の分かりやすい実績馬やすぐに売れそうな血統の馬に集中してしまい、台風の目になっていたのではないでしょうか。あとから下村獣医師に「セリ場に張り付いていた治郎丸さんの粘り勝ちであり、強運が運んできてくれた落札だと思います」と言ってもらいましたが、僕は予算が低すぎて手を挙げることすらできず、張り付いていたというよりは、張り付かざるを得なかっただけなのです(笑)。たしかに、巨大な資本を持つ競合がスパツィアーレをピックアップしていなかったことは、非常にラッキーでした。慈さんにも「治郎丸さんは繁殖牝馬を買うのが上手いです」と褒めてもらいましたが、まだ1頭も産駒が誕生していませんし、産駒を走らせたことも売ったこともありませんから、「買い物上手だけではダメですね」と言って笑い合いました。

今年も第一候補の繁殖牝馬を手に入れたことでひと安心し、有頂天になっていましたが、ひとつだけ問題が残っていました。肝心の慈さんがまだ繁殖牝馬を買えていないのです。僕だけが買えて、慈さんが買えないほど寒いことはありません。しかも慈さんは今年度、補助金を受けられますので、誰よりも買いたい気持ちが強いのです。ジェイエスの冬季繁殖馬セール(来年1月)もあるにはありますが、上場頭数も少なく、冬に購入すると前述した感染症の関係で受胎中の繁殖牝馬であっても直接牧場に入ることが難しくなるため、生産者としては秋のうちに買っておきたいのです。

本命を落札することができなかった慈さんは、その後もこれといった馬が見当たらず、セリもすでに終盤に差し掛かろうとしていました。焦りが隠せない慈さんに、「買いたくない馬を無理に買うよりも、もしよければスパツィアーレを半持ちしますか?」と提案しましたが、「繁殖牝馬を共有するとややこしくなるので」とやんわりと断られました。そう返してくると思ってはいましたが、そんな提案をするぐらい、彼はいつになく焦っていたのです。

最後に1頭だけ、慈さんが目を付けていた馬がいます。187番のツキノサバクです。ジュライカップなどの短距離G1を3勝したOasis Dreamを父に持ち、自身は未勝利で引退していますが、母ダンサーディスティネーションはイタリアの1000ギニーを勝ち、イタリアオークスで2着した名牝です。血統的には素晴らしいのですが、いかにも短距離馬といった気性面での激しさがあり、また前肢が内向しているという不安材料がありましたが、背に腹は代えられません。内向が遺伝子してしまうと、子どもたちの足向きを矯正するのは労力がかかるのを心配して、慈さんの弟のさんは購入に消極的でしたが、慈さんはそれもそれで牧場にとっても良い経験になるからと割り切って、狙ってみようということになりました。腹にアドマイヤマーズの仔が入っているのも魅力的です。実際に下見をさせてもらうと、思っていたほど馬はうるさい感じはなく、肢の内向だけが気になるということでした。慈さんが繁殖牝馬を買えることを願いつつも、納得のいく買い物をしてもらいたいという複雑な気持ちでした。

ツキノサバクの出番までまだ時間がありましたので、僕はスパツィアーレに挨拶をしに行ってきました。朝、下見をさせてもらったときの美しく雄大な馬体の牝馬が、スタッフに連れられて馬房の外に出てきました。思っていたよりも背が高く、昨年手に入れたダートムーアも中型以上の馬格を有している馬ですが、スパツィアーレはそれよりもひと回り以上の大きさを感じさせます。普段は大人しいとのことですが、慣れない場所に連れて来られているからか、ややテンションが高く、じっとしていないため記念撮影に時間がかかります。良く顔つきを見てみると、実に綺麗な目をしています。私は私という自分の意志をしっかりと持った凛とした表情ですね。碧雲牧場に移って落ち着いてから、ゆっくり話そうねとだけ伝えてきました。ダートムーアと違って、ちゃんとコミュニケーションが取れるようになるまで時間を要するタイプである気がしました。あくまでも初対面での印象ですが。

その後、競走馬保険の手続きをするために窓口まで行きました。昨年は保険に入っていて救われましたので、今年は迷いなく手続きをしました。計30万4000円/年。流産等の可能性を考えると必要経費ですね。実はダートムーアの保険が10月末で切れるので、そちらはどうしようか考え中ですが、スパツィアーレに関しては即決です。なぜかというと、慈さんとも昨年のダートムーアの臍帯捻転→流産については話していて、考えられる原因としては、牧場を移されて、新しい環境に入ったことで驚いたダートムーアがいつになく放牧地を走り回ったことがきっかけになって起こったのかもしれないということです。繁殖牝馬を購入して、牧場を移動した直後の環境が一変するときはリスクが高いという結論に達しました。だからこそ、今回、社台ファームから碧雲牧場に移るスパツィアーレはリスクが高いため、競走馬保険はかけておこうと経験則からも判断しました。

僕たちは再びセリ会場に戻りました。僕と下村獣医を残し、慈さんはどこかに消えていきました。成功を祈るのみです。ツキノサバクが登場し、恐れていたことに、あっという間に値が競り上がっていきます。気がつくと700万円を超えて、800万円に到達する勢い。この馬も高くなるのかと思いつつ、慈さんの姿を会場内に探してみましたが、どこにも見当たりません。裏から競っているのに違いありません。このまま1000万円を突破するのかと思っていると、800万を超えた頃から手が上がる間が長くなってきました。そして、825万円の声が上がったあと、しばらくしてハンマーが降りたのです。この時点では誰が買ったのか分からなかったので、僕たちは慈さんを探しに会場外に出ました。慈さんを遠目に見つけ、「どうでした?」と声を掛けると、「何とか買えました!」と返ってきました。僕たちはハグをして喜びを共有しました。生産者が繁殖牝馬を買って牧場に戻る、これほど価値のあることはありません。

長かった僕たちのセリは終わり、最後まで慈さんに付き合ってくれた前野牧場の前野さんと一緒に帰路につきました。このとき初めて、僕たちはお昼ご飯を食べていなかったことに気づいたのです。「そういえばご飯食べていませんね」と僕が言うと、「ご飯食べている余裕なかったですね」と慈さん、そこで前野さんから「セリでご飯食べている奴はダメだ!」とまたまた名言が飛び出しました。前野さんはとても風通しの良い男なので、いつか彼にも繁殖牝馬を預かってもらって一緒に馬をつくりたいと勝手に思っています。何とか繁殖牝馬を仕入れることができた僕たちは、マクドナルドに寄って遅いランチを食べ、夕焼けの映える海岸線を左手に見ながら、僕はそのまま新千歳空港に向かいました。

(次回へ続く→)

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