アニメのなかで、キタサンブラックがサクラバクシンオーにスプリント界へ誘われるという描写があった。
当時の記憶を呼び覚ます絶妙な描き方に、ほんの少し苦みを感じたのは私だけだろうか。
ブラックタイドの価値
キタサンブラックの現役時代、その前半期は母の父サクラバクシンオーがついて回った。かくいう私自身、これにこだわり、痛い目に遭ったひとりだ。快速系の代名詞テスコボーイの流れをくみ、日本のスプリント界を圧倒的なスピードで駆けあがった短距離王を父に持つシュガーハートは未出走のまま繁殖入りしており、母の成績は手がかりにならない。さらに、当時の私を悩ませたのがブラックタイドという種牡馬だった。もちろん、ディープインパクトの全兄ではあるわけだが、戦歴も馬体も弟とはあまりに対照的だった。
今にして思えば、それはそれで気の毒なものだ。なにせ弟は「日本近代競馬の結晶」と称される無敗の三冠馬。比類なき名馬と同血だという理由だけで比べてはいけない。非の打ち所がない弟と同列に並ばされ、同じ視線を浴びせられてはたまったものじゃない。私なら間違いなく、ヘソを曲げ、音信を断ち、どこか遠くへ行ってしまうだろう。だが、ブラックタイドはそうはいかない。勝手にどこかへ行こうと放馬することもできない。ブラックタイドもディープインパクトがデビューする前はデビューから5戦3勝でGⅡ制覇といたって順調だった。スプリングSでドン尻からマクって一閃した際、横山典弘騎手に「まだ隠されたギアがある」と評されるほど雄大な漆黒の馬体とともに奥深さを感じさせた。しかし、2番人気に支持された皐月賞で16着と大敗すると、その歯車は瞬く間に狂っていった。長い休養から復帰すると、周囲の見立てはあのディープインパクトの全兄に変わり、やがて、まったく似ていない残念な兄という烙印を押されてしまう。しかし、そんな不遇ばかりでもなかった。日本中のホースマンが欲しがる弟の血は、ブラックタイドを種牡馬の世界へと導いてくれた。ディープインパクトは高価だけど、兄の血も価値がある。
そんな経緯から種牡馬になったブラックタイドは謎が多い。スプリングSで見せた末脚は弟をイメージさせるが、現役時代の好走が少なく、距離適性といった特徴がつかみにくい。弟の産駒と同じく中距離以上の瞬発力勝負に強い可能性もある一方で、父のような大きな馬体でダート向きの産駒が多かったり、先行して粘り込む競馬が得意だったり。当時の私はブラックタイドを把握しきれていなかった。
距離適性を疑われた5番人気
謎多き良血ブラックタイドと母の父サクラバクシンオーという組み合わせのキタサンブラックは、ダービーまで3、9、5、4、6番人気で1、1、1、3、14着。皐月賞までは中距離で人気以上に走り、いい思いをさせてもらった。だが、2400mのダービーで崩れたときから、私は次第に血統を気に留めるようになった。ブラックタイドのように2000m前後が守備範囲ではないか。その考えは菊花賞で頂点に達した。
中距離に強いブラックタイドにサクラバクシンオー。さすがに3000mは厳しかろう。周囲もそんな声が多く、私もどんどんそちらに流されていった。春は馬券的に助けてもらえたが、今度はそうはいかない。セントライト記念を勝ちながら、菊花賞は5番人気。手元の記録を調べる限り、セントライト記念で複数重賞勝利を達成し、菊花賞5番人気以下だったのは、サクラホクトオー、バランスオブゲーム、ヴィータローザ、そしてキタサンブラックの4頭しかいない。顔ぶれを見ればわかるように、明らかに3000mへの適性を疑われたとしかいえない。トライアル勝利がフロック視されやすい初制覇ではない。それでも菊花賞トライアルを勝って伏兵評価を下されるのは、ひとえに距離適性以外の要素は見つからない。
実際、キタサンブラックは菊花賞で行きたがる素振りを見せていた。鞍上の北村宏司騎手が馬群の中で後ろに体重をかけ、懸命になだめる。春までの先行策とは違う控える形も距離に不安があるからだろう。北村宏司騎手を応援する気持ちの向こうに、そんな勘繰りも働く。少し勝負所のペースアップで遅れた姿に「やっぱり」とつぶやく。だがしかし、そんな感想も勘繰りもすべて私の勝手であった。
ブラックタイドの正体
キタサンブラックは菊花賞でスペースができると言われる馬群の内側を突き、鋭く伸びた。血統にこだわる私を置き去りに、堂々、菊花賞馬の座に就いた。あれは置かれたのではない、北村宏司騎手は待っていたのだ。もう自分の浅い競馬観を反省するしかない。キタサンブラックがその生涯で出走馬中、上がり3ハロン最速を記録したのは菊花賞と不良馬場だった5歳天皇賞(秋)のたった2回しかない。どちらもスタミナがなければ末脚を繰り出せない競馬であり、それが私の愚問への答えでもある。
サクラバクシンオーとテスコボーイの間にはサクラユタカオーが存在する。距離適性に幅があり、なにより東京競馬場に滅法強い。それはすなわち、府中の直線を駆け抜る力強い末脚と等しい。セントライト記念と菊花賞を連勝したのはキタサンブラックただ一頭。このスタミナとデータをも覆すスケール感、それがブラックタイドが隠していたものにちがいない。
自身が現役時代、表現できなかった底力は、キタサンブラック伝説として語りつがれていく。
こんな奇跡的な血の連鎖を私はほかに知らない。
写真:マ木原
書籍名 | キタサンブラック伝説 王道を駆け抜けたみんなの愛馬 |
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著者名 | 著・編:小川 隆行 著・編:ウマフリ |
発売日 | 2023年07月20日 |
価格 | 定価:1,430円(本体1,300円) |
ページ数 | 192ページ |
シリーズ | 星海社新書 |
内容紹介
最初はその凄さに誰も気がつかなかった!「みんなの愛馬」
「父ブラックタイド、母父サクラバクシンオーの年明けデビューの牡馬と聞いて、いったいどれだけの人が、シンボリルドルフやディープインパクトらに比肩する、G17勝を挙げる名馬になることを想像しただろう」(プロローグより)。その出自と血統から、最初はその凄さに誰も気がつかなかった。3歳クラシックと古馬王道路線を突き進むも、1番人気は遠かった。それでも一戦ごとに力をつけ、「逃げ・先行」の才能を開花させると、歴戦の戦士を思わせる姿はファンの心に染みわたっていった。そして迎えたラストラン、有馬記念を悠然と逃げ切ったハッピーエンディングな結末。みんなの愛馬となった感動の蹄跡がここに甦る!