夏の初め、北東の風が軽やかに国旗をはためかせる。
曇り空から薄日が差し込む中、2か月半遅れのJ・GⅠファンファーレが響き渡った。
真夏日に迫る気温の中山競馬場。この日を待ちに待ったスタンドのファンから大声援が上がる。
第13回中山グランドジャンプの幕が、切って落とされようとしていた。
2011年。
3月11日に発生した東日本大震災は、3月12,13日の中山・阪神・小倉開催は中止となるなど、中央競馬界にも深刻な影響を及ぼした。
当初は3月19日から中山競馬場を含む開催復帰を模索していたJRAであったが、津波、原発など、日に日に明らかになりゆく甚大な被害を受けて方針を転換。春の中山開催は全面中止となり、関東圏の開催再開は4月23日の東京開催まで延期された。中山開催の平地重賞は皐月賞(1週延期して東京で開催)を除いて阪神競馬場に振替となったが、中山グランドジャンプだけは代替開催日が発表されないまま、時だけが過ぎていった。
一方で、競馬は日本に勇気と希望と感動ももたらしていた。
震災の15日後にはドバイワールドカップでヴィクトワールピサ、トランセンドがワンツーフィニッシュ。現地のインタビューで号泣しながら「今朝、日本のために祈っていました」「日本を愛しています」と答えたミルコ・デムーロ騎手の姿に涙したことを、今でも鮮明に思い出せる。
そして、ダービー。
大雨、不良馬場、そして直線目の前に立ちふさがる幾重もの壁を、泥まみれになりながらぶち破って二冠を手にしたオルフェーヴルの姿に、復興に向けて立ち上がる日本の姿を重ねた競馬ファンもたくさんいらしたことだろう。
──そのダービーの2週間前、5月13日に、ようやく中山グランドジャンプの開催日が決定した。
施設の著しい損傷、そして福島第一原発事故の影響で除染、芝コースの全面張替えを余儀なくされた福島競馬場。夏の福島開催が中山競馬場に振り替えられることとなり、それに合わせて7月2日土曜日のメインレースとして、中山グランドジャンプは開催されることとなったのだ。
最後の向こう正面、障害コースから芝コースに戦いの場を移す中山グランドジャンプ。例年は最内から3メートルに内ラチを設置したBコースで行われるが、2011年夏の中山開催は急遽の開催のためか、芝コースはターフ保護のため、最内から6メートル地点に内ラチを設置したCコースでの開催となった。
平地レースではコースが大回りになった分ゲートを移動させるが、狭く小回りの障害コースではスタート地点の移動ができない。そのため2011年の中山グランドジャンプは例年より10m長い、4260mでの開催となった。
名実ともに『日本でいちばん長いGⅠ』となった、第13回中山グランドジャンプ。
障害レースの頂きを我が物にせんと集まった12騎の人馬。約5分にわたる戦いのゲートが、開かれた。
ポーンと好スタートを切ったのは、ここまで障害重賞3勝のテイエムトッパズレ。20世紀末の日本競馬を支配した覇王テイエムオペラオーの産駒として最高の活躍馬にして、九州産馬としては障害重賞8勝の女傑コウエイトライに次ぐ中央賞金獲得馬でもある。鞍上は佐久間寛志騎手。
1つ目の障害を飛越した後、テイエムトッパズレを制してハナに立ったのはタイキシャトル産駒メジロラフィキだった。こちらは平地で準オープンまで出世したのち、障害に転戦。3走前に1月の府中で障害デビュー戦を勝った時には『メジロ』の冠号になじみの『白地、緑一本輪』の勝負服であったが、5月のメジロ牧場の解散に伴い、前走からは同牧場専務であった岩崎伸道氏の勝負服での出走となっていた。鞍上は五十嵐雄祐騎手。
ダートコースのさらに内、急角度のコーナーを回って馬群は正面スタンド前へ。内内を立ち回って2番手に上がったのはシンボリクリスエスの仔エルジャンクション。休止となった春の福島を代替した新潟競馬場の平地戦を叩いての出走だった。鞍上は林満明騎手。
2馬身遅れて4番手には、北沢伸也騎手とコンビを組んだクロフネ産駒のスズカスペンサー。2年前の京都ハイジャンプ2着の実績を持つ同馬は、1年以上の休養を乗り越えて前年末に復帰し、ここが復帰後5戦目であった。
正面の水壕障害を飛越して、外からタカラボスが5番手に上がってきた。父は10年前の有馬記念でシンガリ人気ながらマンハッタンカフェの2着に入り"サイン馬券"の代名詞となった大波乱を演出した重賞4勝アメリカンボス。ブービー人気で5着に入る健闘を見せた前走・東京ジャンプステークスに引き続き、鞍上には大庭和弥騎手の姿があった。
生垣を越え、1コーナーを右へ。横山義行騎手を鞍上にタカラボスの外につけたのは、2007年中山大障害を制した出走メンバー中唯一のJ・GⅠ馬メルシーエイタイム。テイエムドラゴン、マルカラスカル、キングジョイと合わせて、同世代で4頭のJ・GⅠ馬を輩出した2002年生まれ世代の生き残りだ。平地を叩いてJ・GⅠ出走というローテーションを約6年にわたって貫き、J・GⅠ2着6回は今でも最多記録である(2024年4月現在)。
1、2コーナー中間の生垣を越え、馬群はバンケットを下る。人馬が見えなくなる。
再び見えた時、6番手にはオープンガーデンが外から進出していた。20世紀、21世紀をまたいで最優秀障害馬の栄誉に浴した名ジャンパー・ゴーカイの仔として、休養明けの前走・阪神スプリングジャンプで重賞初制覇。3年半にわたりコンビを組んだ江田勇亮騎手とともに『親子J・GⅠ制覇』の大偉業に挑む一戦であった。
馬群は徐々に縦長となって向こう正面へ。後方内に控えたのは青い帽子のプラテアード。シルバーデピュティ産駒、藤沢和雄厩舎所属の同馬は2007年にはプリンシパルステークス2着(当時は2着までにダービー出走権が与えられていた)で最後の1枚の切符をもぎ取ってダービー出走(18着)を果たし、その後準オープンまで勝ち上がったのちに障害に転戦していた。結果としてこの一戦が藤沢厩舎史上唯一のJ・GⅠ出走となった。鞍上は石神深一騎手。オジュウチョウサンと出会う4年前であり、この年は最終的にキャリア唯一の年間未勝利に終わる(2024年現在)。
向こう正面から大障害コースへ。坂を下り、そして上る。たすき掛けのコースのため、内が外に、外が内になる。後方内の位置取りとなったのはダンスインザダーク産駒エーシンダードマン。3歳時には菊花賞4着の実績を有し、3000m以上の平地重賞7度の出走歴を誇るステイヤーである。西谷誠騎手を鞍上に、障害4戦目での大舞台初挑戦となった。
メジロラフィキを先頭に、各馬が第一の難関・大竹柵に挑み、そして超えてゆく。拍手が起きる。
後方4番手に控えたのが前年冬の中山大障害3着、ステイゴールド産駒のマイネルネオス。3歳上の姉マイネヌーヴェル、そして1歳下の弟マイネルアワグラス、2歳下の弟マイネルチャールズがいずれも重賞を勝っている血統馬である。鞍上は柴田大知騎手。
逆回りに4コーナーを左へ。メジロラフィキがリードを広げてゆく。最初に飛んだ生垣を逆方向に各馬が飛越する。そしてバンケットを2回。下って、上って、下って、上る。
スウェプトオーヴァーボード産駒、出走馬中唯一の牝馬ナドレが後方2番手から大障害コースに向かう。オープンガーデンと同じ勝負服に身を包んだ穂苅寿彦騎手とのコンビだ。
12頭がそろって2度目の山場、大生垣に挑んでゆく。
1頭離れた最後方からは出走馬中唯一の外国産馬、ラングフール産駒のエヒテンヴィーゼが追走する。障害18戦目、初の重賞挑戦の舞台が中山グランドジャンプとなった。鞍上は乗り替わりの金子光希騎手だ。
メジロラフィキを先頭に、12頭が次々に大生垣に向かって踏み切って、ジャンプして、越えてゆく。全馬無事飛越に再びの歓声が中山競馬場を包む。
順回りに戻る。徐々に隊列が縦に伸びてゆくサバイバルレースの様相。1・2コーナー中間の生垣を飛越したエーシンダードマンの西谷騎手が大きくバランスを崩す。悲鳴が上がるが、片腕が手綱から離れて鞍から腰が落ちんばかりのところから西谷騎手が持ち直す。その技術に、その強靭さに、悲鳴が感嘆に変わる。
5度目のバンケットから向こう正面、ダートコースを横切って外回りの芝コースに向かってゆく。
先頭を守り通すメジロラフィキにオープンガーデンが詰め寄り、いつの間にか内からマイネルネオスが3番手に上がる。J・GⅠ2勝目を目指してメルシーエイタイムが続く。スズカスペンサー、テイエムトッパズレまで6頭が射程圏内に生き残り、向こう正面の置き障害をジャンプする。
芝コースに置かれたハードルはあと2つ。
手綱が動き始めたオープンガーデンを交わし、メルシーエイタイムが一気に差を詰めて2番手に上がる。
3コーナーのハードルを飛越したところで5番手につけていたスズカスペンサーに異変が起き、北沢騎手がその走りを制止する。メジロラフィキ、メルシーエイタイム、オープンガーデン、マイネルネオス、テイエムトッパズレ。5頭がほぼ等間隔で残り600mを通過してゆく。
残る障害はあと1つ。
4コーナーを回る。テイエムトッパズレが脱落。そしてメジロラフィキにメルシーエイタイムが迫る。外に進路を切り替えたマイネルネオスがオープンガーデンを交わして3番手に上がる。勝負の行方は3頭に絞られた。
4コーナーを回って最後の障害。
──誰もが目をそむけたくなる悲劇、しかし競馬ファンならば受け止めなければならない現実がメジロラフィキを襲った。
倒れて動かない彼の横を、メルシーエイタイムが走り抜けて行き先頭に立つ。それでも競馬は続く。
2番手に上がったマイネルネオス。
柴田大知騎手の渾身の左ムチが飛ぶ。10発、15発、20発…。
鞍上の叱咤に応えたマイネルネオスが末脚を伸ばす。
4260mの最後の50mで、マイネルネオスはメルシーエイタイムを交わし去り、そして先頭でゴール板を通過した。
柴田大知騎手の左腕が、高々と、高々と、夏空に突き上げられた。
「1勝も、できない年が、何年かあって…」
半ば嗚咽しながら、インタビューに答えていた柴田大知騎手。
デビュー10年を超えた2006年、2007年には年間50鞍ほどの騎乗にとどまり、2年連続勝ち星を挙げられなかった時期があった。まさに"どん底"から、障害レースに活路を求めてのJ・GⅠ初制覇。その復活劇は、翌年マジェスティバイオでの中山グランドジャンプ連覇へ、そしてさらにその翌年のマイネルホウオウでのNHKマイルカップ制覇に象徴される再びの平地での活躍へとつながってゆく。
2005年12月のデビューから走り続けて実に43戦目、8歳での重賞初制覇をビッグレースで飾ったマイネルネオスは姉と2頭の弟に続き、母マイネプリテンダーにJRA重賞の冠を捧げた。1頭の繁殖牝馬が4頭以上のJRA重賞勝ち馬を産んだのは、ダンシングキイ以来、9例目のことであった。
そしてマイネルネオスの父ステイゴールドにとっても、これがJ・GⅠ初制覇。2011年は三冠に加え有馬記念も制したオルフェーヴルと合わせ、年間JRA‐GⅠ5勝と大躍進を遂げた。初めてJRAリーディングサイヤーベスト10となる4位に食い込み、その全盛期の幕開けを告げていた。
ステイゴールドは、のちのオジュウチョウサンによる4250mの中山グランドジャンプ6勝、そして4100mの中山大障害3勝と合わせ、史上唯一の『3種類の距離のJ・GⅠを制した種牡馬』となっている。これは、今後異なる距離のJ・GⅠが開催されない限り決して並ばれることのない記録である。
一方で、最後から2つ目の障害飛越後にその歩みを止めたスズカスペンサー、最終障害飛越の際に転倒したメジロラフィキ──予後不良となった2頭のことも、忘れてはならない。
震災の年、日本一長い距離で行われたGⅠの女神は、5年半以上の長きにわたって走りつづけた1頭の馬と、長い苦難の時を乗り越えつつあった1人の騎手に微笑んだ。
そして12年6か月の時を経て、マイネルネオスの姉マイネヌーヴェルの仔、そして父ゴールドシップを通じてマイネルネオスと同じステイゴールドの血を引くマイネルグロンが、2023年冬の中山大障害を制し、叔父に続くJ・GⅠホースとなった。
血統のドラマ、競馬は、こうして続いてゆく。
写真:Hiroya Kaneko