その眼差しに愛がある。パンサラッサ引退に想う

目を見ずに交わされる言葉へ

どんなことも諦めるのは簡単だ。可能性を閉ざす言葉はいくらでもある。

「止めろ」「無謀だ」「できるわけがない」。

人は時として、簡単にそんな言葉を使う。もちろん、止めさせるのも、思いとどまらせるのも愛情の一部だったりもする。愛の有無は言葉の表層では推し量れはしない。言葉を発する瞬間の眼差しにこそ、愛はあらわれる。

目を見ずに交わされる言葉が増えた。いや、現代はそんな言葉だらけだ。これは進歩なのかどうか。迷いながらも、見えない言葉を使い続ける。悩みながら生きるから、人生はときに辛く、またときに楽しい。可能性を伸ばしたい。子を持つ親なら、みんな心の底にそんな思いを抱いている。一方で、できる子どもだけがいるわけじゃない。周りができても、自分の子どもができないこともある。それは珍しいことではなく、当たり前なんだと分かるまで、親は少し時間がかかる。そんなとき、つい可能性を閉ざす言葉をかけてしまう。心の底に愛を抱き、応援する気持ちがありながらも、できないことに目をそむけたくなる。

たとえば、勉強ができない。集中力が続かず、文字をきれいに書けない子がいる。テストの結果は悪く、勉強させようとしても、したがらない。このままだと、大人になったらどうなってしまうのか。親は心配でたまらない。少しでも同級生に追いついてほしいと、叱りつけてしまう。心配もまた愛情からくるもの。叱ってしまう親を非難したくない。だけど、その子の可能性は周りの子どもと同じところにしかないのか。時々、立ち止まってみる。どこか別の領域に可能性がありはしないか。あらゆる角度から子どもに眠る才能のかけらを探す。そんな優しい眼差しを送っていたいと、私は競馬から教わった。

同級生は天才コントレイル

矢作芳人厩舎に預けられたパンサラッサにはコントレイルという同級生がいた。無敗で三冠を駆け抜けるほどの希代の天才。勉強ができるとかそんなレベルではなかった。比べてはいけない。でも、比べてしまう。競走の世界に身を置く以上、それは避けては通れない。

コントレイルが新馬を圧勝した翌週、パンサラッサは同じ阪神競馬場でデビューした。6着だった。コントレイルが東京スポーツ杯2歳Sへ進むなか、3戦目に京都で未勝利を脱出したパンサラッサはエリカ賞6着後、1勝馬ながら登録数が少なく、GⅠホープフルS出走が叶った。2戦2勝で重賞を制したコントレイルが出てくることで、登録を見送った馬もいたかもしれない。同級生に天才がいるのは悪いことばかりではない。

ホープフルSでパンサラッサははじめて逃げを披露する。前後半1000m1.00.9-1.00.5。コントレイルに及ばずも、前後半のバランスがとれたラップを体験できたのは、その才能の一端だったといえる。

矢作調教師は引退式で語った。「パンサラッサは努力の馬です。サラブレッドは才能を努力で覆すのは簡単ではありません」では、なぜ、パンサラッサは世界を驚かせる馬になれたのか。もちろん、パンサラッサ自身の成長と努力もあった。しかし、それだけではサウジCは勝てなかったかもしれない。そこには矢作厩舎と主戦を務めた吉田豊騎手、馬主の広尾レース、生産者の木村秀則氏みんながパンサラッサの可能性を見つめる眼差しがあったからではないか。この馬がもっとも輝ける場所はどこなのか。どんな距離なのか、そしてどんな走りをすればいいのか。可能性なんて大それたものでなくていい。一番いいところはどこなのか。コントレイルのような最後に速い脚が使えなくても、最初から飛ばすことはできる。リズムを整えられるのはホープフルSで証明していた。ならば、鍛えて心肺機能をあげよう。坂路コース中心の調教にはそんな想いがあった。リラックスさせてから速い脚を使うのではなく、最初から最後まで負荷をかけ、心肺を鍛える。すべてはパンサラッサのいいところを信じ続けた結果だった。

コントレイルが引退する少し前、福島記念でパンサラッサは重賞初制覇を遂げる。前半600m33.6、1000m通過57.3、後半1000mは1.01.9。これこそがパンサラッサのいいところが凝縮した競馬だった。そして、それを発揮できれば、勝てることを証明した。これはパンサラッサに宿るポテンシャルあってのことだ。勝てなければ、競馬は前へ進めない。

パンサラッサは矢作厩舎に入ったという幸運もある。常に管理馬が勝てる道をどんな道でも排除せずに探し、どこかに眠る可能性を見つけようとする矢作調教師の眼差しは熱い。そして、その可能性を引き出す術をこれまで培った多くの経験から獲得し、惜しげもなく管理馬に還元する姿勢に妥協がない。

最後に速い脚が使えなくても、勝利をつかむ道はある。可能性の芽はどこにでもある。矢作厩舎とパンサラッサは私にそれを教えてくれた。厳しく育てることと、可能性を閉ざさせるのは違う。その違いは眼差しにある。矢作調教師は厳しい目を向けることもあるが、必ずその奥底には優しさが宿っている。悪いところを批判するだけでは伸びない。いいところを探し、伸ばす。それが成長だ。成長の芽をつぶしてはいまいか。自省しかない。

その眼差しに愛がある

サウジCを勝てたのは、サウジCに挑戦したからにほかならない。どんなレースも挑戦なくして勝利はない。しかし、挑戦にはリスクがつきものだ。人はリスクを恐れる。それはある意味で本能的なものだ。リスクを恐れるなと軽々にはいえない。だが、リスクを冷静に分析する力が必要だ。さらにいえば、可能性とリスクを計れる材料をそろえたい。それも眼差しに集約される。普段から、その子のあらゆる面を見落とすことなく、見つめ続けていけば、自然と頭の中に必要なものは入る。決して目をそらさない。そんな執念もまた、愛あればこそ。細微にわたり観察するなんて、愛がないとできはしない。裏を返せば、愛あればこそ、必ずなにかを発見できる。あきらめてはいけない。

矢作調教師の妥協なき姿勢はパンサラッサの走りに宿った。いくら心肺機能を鍛えたとて、極限に近いラップを刻めば、最後は疲れてしまう。あきらめたくなるときこそ、あきらめてはいけない。辛くてもあきらめない。ゴールまで走り切る。パンサラッサにはそんな意志があった。最後の最後、いちばん苦しいときに踏ん張れるかどうか。それは乗り手との信頼関係なくては成り立たない。人間との信頼関係があれば、サラブレッドは極限の世界で踏ん張ってくれる。それが絆として観るものに感動を与える。すべては眼差しからはじまる。

その眼差しに愛がある。

目を見ずに送られる言葉に負けるな。吹けばどこかへ消えてしまう、簡単に削除できる可能性を閉ざす言葉に負けてはいけない。あきらめることなく愛情を注ぎ続ける眼差しこそ、信じるに足るものだ。パンサラッサと矢作厩舎の物語は、そう教えてくれた。たとえ勉強ができなくても、なにかできること、できるかもしれないことはある。我が子にそんな眼差しを送ろう。

写真:かぼす

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