あの日、僕らは沈黙に包まれた。
言いようのない感情に心が支配された。
1998年11月1日、1枠1番1番人気、サイレンススズカ。
府中の魔物に飲み込まれ、スピードの向こう側へと駆けて逝った瞬間を陳腐な表現で語るなら、絶望、悲愴、喪失感。それまで彼の勝利を、活躍を願っていとわなかった我々の想いは、一瞬にして飲み込まれた。
それでも競馬は続いていく。
彼が打ち破った外国産馬2頭のうち、一方はグランプリ制覇を成し遂げ、もう一方は3歳にしてジャパンカップを勝利して年明け後に仏遠征を敢行する。そして彼らの同世代には二冠馬となった馬、天才にダービージョッキーの称号を掴み取らせた馬、もう1人の天才にダービーの苦しさを教えることになった馬たちがいた。
時代は、世代は確かに受け継がれ、移ろいで行く。
1999年10月31日。
再び天皇賞・秋はやってきた。1年前、クラシック戦線を戦っていた彼らを主役として。
"最強世代"が古馬戦線でも躍進
1999年、群雄割拠の古馬王道戦線は、まさに混沌状態になると囁かれていた。
ジャパンカップを制覇したエルコンドルパサーが渡仏宣言をしたとはいえ、3歳にしてグランプリホースに輝いた怪物グラスワンダー、皐月賞・菊花賞を制覇したセイウンスカイにダービー馬スペシャルウィーク、クラシックこそ無冠に終わったもののその素質は確かなものであるキングヘイローら98年クラシック世代。彼らが古馬との戦いに本格参戦してくることはもちろんのこと、前年、メジロマックイーン以来となるメジロ牧場による天皇賞制覇を成し遂げたメジロブライト、若干の不振とはいえこちらも3歳で有馬記念を制したシルクジャスティスを筆頭に、G1戦線で好走を続けるステイゴールド、菊花賞馬マチカネフクキタルなど、上の世代も精鋭揃い。頂点を賭ける戦いは、過去に類を見ないほど激しいものになる──と、考えられていた。
ところが、上半期を終わってみれば古馬の中長距離路線は98年世代が上位を独占。天皇賞・春はスペシャルウィークがセイウンスカイを下して菊のリベンジを果たし、安田記念はグラスワンダーとエアジハードがハナ差7センチの激闘を繰り広げ、宝塚記念はほぼグラスワンダーとスペシャルウィークのマッチレースになった。最後はグラスワンダーがスペシャルウィークを3馬身突き放してのゴールインだったが、スペシャルウィークから3着ステイゴールドとの差は、なんと7馬身。圧倒的なその差を見せつけられた我々は、この年は98年世代が独占すると口々に言い、異を唱える者は少なかった。
そして彼らが秋がやってくる。前年、サイレンススズカが下した怪物2頭は毎日王冠・フォワ賞と、それぞれの始動戦を快勝。二冠馬セイウンスカイも北の大地で同世代の二冠牝馬ファレノプシスらを相手にそれまでのレーススタイルから一変、「差し切り」勝ちと、存分に進化を感じる勝ち方を見せていた。この秋も順風満帆、最強世代の証明がされると思われた。
だが、その評価に暗雲が立ち込める。
それも、暗雲が立ち込めたのは、世代王者とも言えるダービー馬スペシャルウィークだった。
エルコンドルパサーは依然渡仏中、グランプリホースのグラスワンダーが内国産限定(当時の規定で、一部のG1レースは外国産馬には解放されておらず、出走が認められていなかった。主にクラシック競走、天皇賞が該当)の競走である天皇賞・秋に出走できなかった以上、内国産の王座についているのは間違いなくスペシャルウィークであり、日本ダービーに加えて天皇賞・春を制覇した彼は勢いにも乗っていた。
──が、復帰初戦の京都大賞典。
好位につけるスペシャルウィーク。4コーナーで進路が空く。いつも通りここから伸び、突き抜けるはずに思えたその馬体は、重い足取りで馬群に飲み込まれていく。天皇賞・春で下したメジロブライト、3歳馬テイエムオペラオーに先着を許したばかりか、G2自体これが初挑戦となった同世代のツルマルツヨシに勝利を許した。
時を同じくして、かつてダービーで2番人気に支持されていたキングヘイローもグラスワンダーに完敗。その背に、若き天才の姿はなかった。
グランプリホースとフランスに飛んだ怪鳥、二冠馬、そして遅れてきた皇帝の息子の評価が上がる一方で、1年前、京都新聞杯で競り合いを演じた2頭の評価は落ち、一部ではこう囁かれるようになった。
「彼らは終わった」と。
様々な感情、結果を残したそれぞれの始動戦。
そして彼らは集う。1年前、1頭のスーパーホースが消えた舞台に、自らの存在を証明するため、世代最強を、そして日本最強を証明するために──。
逆襲か、王座交代か
本番、天皇賞・秋。
進化を遂げた二冠馬セイウンスカイは3.8倍の1番人気。鞍上にはもちろん、不滅の名コンビ横山典弘騎手。今回は逃げるのか、控えるのか。変幻自在を身に着けた彼の逆襲に期待する人々は、芦毛の逃亡者を1番人気に支持した。
「主役は最後にやってくる」とばかりに現れた新星・ツルマルツヨシは、6.0倍の2番人気。跨るは名手、藤田伸二騎手。クラシックにこそ乗れなかった遅咲きの大器をここまで成長させた相棒は、一気に頂点を狙える位置まで来ていた。
そして──。
春の天皇賞馬、復活を賭けるスペシャルウィークは6.8倍の4番人気。
4歳世代では3番目の人気とはいえ、春までの実績を考えれば、明らかに低すぎる評価だった。
馬体重-16キロ、直前の調教では500万下の条件馬に後れをとる。前走の敗因は夏負けの兆候が続き強い負荷をかけられなかったこととされていたが、果たしてそれがどこまで尾を引くのか。
だが、それでも王者は逆転の道を諦めてなどいない。
事実、この日のスペシャルウィークの馬体重は470キロ。-16キロは夏負けで絞れなかった分の減量で、前年のジャパンカップ3着時と同体重、そして、ダービーの日の体重から4キロ増えているだけと、王者に輝いていた時期の馬体重へと戻してきていたように、陣営は決して王座復権をあきらめてはいなかった。
そして、彼に跨る武豊騎手にとっては、1年前の事故以来の天皇賞・秋。
あの日から時を刻んで、調子を落としたといわれている有力馬で再び秋の盾に挑む……。
おそらく、特別な感情を抱いていたはずだ。
定刻通りの15時35分、府中の空にファンファーレが鳴り響く。
セイウンスカイがゲート入りを嫌いファンファーレから5分近くゲート入りまで時間がかかり、最終的には目隠しまでされてのゲート入りという一波乱が発走前から起きたものの、それ以降は順調に枠入りが進む。最後に大外、ツルマルツヨシが収まって、1コーナーの奥、スタンドからの歓声とともにゲートが開いた。
「サイレンススズカが背中を押してくれました」
スタートを決めたのはアンブラスモアと須貝尚介騎手。最内枠の1枠2番からロケットスタートを見せた。
そのまま先頭を取って後続との差を広げていく。2馬身程後ろにサクラナミキオーがつけ、クリスザブレイヴ、サイレントハンターが続いて先行集団を形成。アンブラスモアのマイペース、しかし前年サイレンススズカが魅せたあの大逃げとは打って変わって、単騎逃げの様相でレースは進んでいく。
そして注目のセイウンスカイは、札幌記念と同様やはり中団から。その位置は1年前、スペシャルウィークがダービーで取った「10番手」。単なる偶然かもしれないが、それでもどこか運命を感じずにいられない位置取り。今回は捲るのか、それとも中団差し切りを狙うのか。観衆の注目がセイウンスカイの戦法に注がれる一方、前年のダービー馬はそれよりさらに後ろ、14番手の位置で静かに息を潜めていた。
スペシャルウィークは元々口向きが悪い。引っ掛かる癖も往々にして見受けられており、セイウンスカイが逃げ切った菊花賞も道中は掛かり気味だった。
だがこの日、スペシャルウィークは落ち着いていた。まるで獲物を狙う鷹のように、14番手という後方の位置から先団を見つめていた。
1000m通過、58.0。
前年の圧倒的ハイペースよりは遅いものの、明らかな超ハイペース。
大欅の向こうを超えて、17頭が無事にその姿を見せて直線に向いてくる。
400のハロン棒手前でクリスザブレイヴ、サクラナミキオーはたまらず脱落。サイレントハンターも踏ん張りはするが、前に追いつけるだけの脚はない。これだけのハイペース、先行策を取った馬たちが厳しくなるのは当然だろう。ところが、未だ先頭を行くアンブラスモアは再度後続を突き放し、2馬身、3馬身とリードを取る。
「ハイペースでの逃げ切り」
泡沫の夢か、一瞬、前年の影が映る。
しかし、そう甘くはない。脱落する先行勢をよそに、エアジハード、紅一点の4歳牝馬スティンガー、ステイゴールドらが追撃。ツルマルツヨシもその脚を伸ばし、内からはキングヘイローと、最強世代もアンブラスモアめがけて殺到。そして大外、芦毛と黒鹿毛の2頭、二冠馬とダービー馬が先頭集団を飲み込まんとその脚を伸ばす。馬体を合わせて伸び始める2頭に、熾烈なたたき合いまで予想された。
だが、セイウンスカイはスペシャルウィークほど伸びない。
まっすぐに突き抜けて伸びるライバルとは裏腹にジリジリとした脚だった。
それはまるで1年前、ダービーの舞台で並ぶ間もなくあっという間にスペシャルウィークに突き放された時と重なって見えた。そしてそのまま、スペシャルウィークは先頭集団の争いに加わっていく。
残り100m。前を行くアンブラスモアの逃げ切りの夢は潰え、かわってエアジハードとスティンガーが競り合う。その外からステイゴールドがまとめてひとのみにせんと交わしにかかるそのさらに外、1頭だけ次元の違う脚で先頭集団に突っ込んでいく黒鹿毛の馬体。スペシャルウィークが、弾けるように伸びる。
──届くのか、本当に届くのか。
残り50m、アンブラスモアもエアジハードもスティンガーもとらえた。
残り数完歩、内を行くステイゴールドに並びかけた瞬間、彼の首がもうひと伸び。それはまるで、前年の鞍上の相棒が、最後の一押しを手助けするかのように。
クビ差、ステイゴールドを確かにとらえてゴールイン。
タマモクロス以来となる、天皇賞春秋連覇の偉業が達成された。
上り3ハロン34.5は出走メンバー中ただ1頭の34秒台。
ただ、直線だけに賭けたその末脚。
王者は、終わってなどいなかった。
武豊騎手が大きなガッツポーズをし、ステイゴールドの熊沢重文騎手とのハイタッチに合わせて、アナウンサーが「武豊にしてみれば1年遅れの天皇賞・秋」と言う。
泡沫の夢は、確かに引き継がれていたのだ。
「サイレンススズカが背中を押してくれました」と言う武豊騎手の言葉が、そのすべてを物語っていた。
激闘の後に…
そしてこの後、スペシャルウィークはジャパンカップで、凱旋門賞でエルコンドルパサーを撃破したモンジュー、イギリスダービー馬ハイライズら錚々たるメンバーを相手に日本総大将として出走。見事に王者の座を防衛してG1連勝を飾った。ラストランとなった有馬記念でのグラスワンダーとの死闘を含め、凄まじい活躍が続いた。
「スペシャルウィークの最高のレースは何か?」と聞かれたとき、意見は割れるだろう。
ある人はダービー、ある人はジャパンカップ、またある人はグラスとの激闘の有馬記念だと答えるはずだ。
もちろんどれも素晴らしいレースであり、歴史に残る走りである。
だが私は、この天皇賞・秋こそ彼のベストレースにふさわしいと思うのだ。
多くの影と、夢と、復活をのせた名勝負として。
写真:かず