大阪杯勝利、そして2年後の復活劇──芦毛ブームを牽引した名脇役・ホワイトストーン

それは、突如としてやってきた──。

昭和の終わりから平成にかけて吹き荒れた、芦毛ブームである。
そのきっかけとなったのは、昭和62年の秋から翌年にかけて連勝街道を驀進した、二頭の芦毛のサラブレッドだった。

一頭目はタマモクロス。

ダートでくすぶっていた馬が、芝に再転向すると突如の快進撃をみせ、現・1勝クラスからの6連勝で天皇賞春を勝利。GⅠ初制覇を達成すると、続く宝塚記念も制して連勝をのばした。

もう一頭は、1歳年下のオグリキャップ。

地方・笠松で12戦10勝の戦績をひっさげ、昭和63年の3月に中央へ移籍。すると、そこから中央のエリート達を次々となぎ倒して重賞6連勝を達成。GⅠのタイトルに手の届くところまでやってきた。

そんな二頭の初対決は天皇賞秋。その時はタマモクロスが勝利して、オグリキャップは2着、続くジャパンカップでは、アメリカのペイザバトラーが優勝し、タマモクロスが2着、オグリキャップは3着に敗れた。

しかし、タマモクロスの引退レースとなった有馬記念でオグリキャップが優勝。ついにリベンジを果たし、初のGⅠタイトルを手にしたのである。

そこから、オグリキャップの存在は、芦毛ブームどころか競馬界に留まらないほど大きくなり、国民的アイドルとなって日本列島を席巻。そして、引退レースとなった平成2年の有馬記念で奇跡の優勝を成し遂げ、伝説となった。

その間にも、3歳クラシック路線では、平成元年のダービーを制したウイナーズサークルや、翌年の皐月賞を制したハクタイセイなど芦毛が大活躍。さらに、半年後の菊花賞を制したのも芦毛のメジロマックイーンで、オグリキャップを引き継ぎ、日本の競馬界をリードする存在となった。

そのメジロマックイーンは、平成3年の天皇賞秋で1着に入線しながら進路妨害のため降着となる。しかしそこで繰り上がって優勝したのは、やはり芦毛のプレクラスニーだった。

さらに2年後。メジロマックイーンの引退と入れ替わるようにして、菊花賞を圧勝したビワハヤヒデが、ステイヤーの系譜を受け継いだ。

以後も、芦毛の活躍馬を挙げ出せばきりがないが、クロフネやゴールドシップといったスーパーホースが続々と出現。近年では、ウインブライトやクロノジェネシスが、国内外のGⅠで実績を積み重ねている。

嘘みたいな話ではあるが、タマモクロスが出現するまでは、「芦毛は走らない」という格言が、まことしやかにささやかれたこともあった。しかし、現代はそんな格言など微塵も感じさせないほど芦毛馬の活躍が目立つ。
なによりその存在感の大きさと人気の高さは、群を抜いている。

……前置きが長くなってしまったが、今回は、メジロマックイーンと同期の芦毛馬が躍動した、1991年の大阪杯を振り返りたい。


この年の大阪杯は、阪神競馬場の改築工事のため、年に1回しか行われない、京都競馬場の外回り2000mという、珍しい条件で開催された(当時、通常はローズステークスのみだった)。

出走頭数は10頭に落ち着き、人気は3頭に集中。
その中で1番人気に推されたのは、4歳馬のホワイトストーンだった。

ここまで12戦し、手にした勝利は、未勝利戦とGⅡ・セントライト記念の2勝のみ。ただ、8着に敗れた皐月賞を除けば、それ以外はすべて掲示板を確保するほどの堅実派だった。

前走は、オグリキャップの引退レースとなった伝説の有馬記念で、1番人気ながら3着と惜敗。しかし、さすがにここでは実力上位とみられていた。

一方、2番人気に推されたのは、同じく4歳のメルシーアトラ。
デビュー戦こそ2着に敗れたものの、2戦目からの3連勝で若草ステークスを勝利し「関西の秘密兵器」として日本ダービーに挑むも、11着に敗戦。その後、夏にオープンのシーサイドステークスを勝利すると、菊花賞トライアルの京都新聞杯3着を挟み、本番の菊花賞では4着。そして、年明けの日経新春杯で初めて重賞を制し、ここに臨んでいた。

3番人気に続いたのは、6歳馬のダイユウサク。
3歳10月のデビューと、遅い船出を迎えたこの馬は、なんと2戦続けてタイムオーバーという大敗から現役生活をスタートした。しかしその後は、特に芝のレースで堅実に走り、およそ2年をかけてオープンまで昇級。前年11月のトパーズステークスを勝利すると、続く飛鳥ステークスも勝ち、年明けの金杯も制して3連勝で重賞初制覇。今回は、それ以来およそ3ヶ月ぶりのレースとなった。

さらには、東京大賞典や川崎記念など地方競馬で21勝をあげ、中央に乗り込んできたダイコウガルダンが4番人気となり、GⅠ馬はいないものの、天皇賞に向けて楽しみなメンバーが集まった。

薄曇りの下スタートが切られると、ギオンアトラスとマルシゲアトラスの2頭が出遅れ。

一方、先手を争ったのはインタースナイパーとメルシーアトラで、コーナリングでインタースナイパーが先頭に立った。ホワイトストーンは直後の3番手、ダイユウサクは5番手で、1コーナーから2コーナーへ。

逃げ争いは1コーナーで決着しており、向正面に入ったところで、インタースナイパーのリードは3馬身に広がった。その他、先行勢のポジションも決していたが、中団以降ではスタートで出遅れたギオンアトラスが引っかかって3番手までポジションを上げる。ダイコウガルダンは、ややいきたがるのを増沢騎手が抑えながら、7番手に控えていた。

前半の1000m通過は、1分1秒4のスロー。最後方に構えるマルシゲアトラスがやや離れていたため、少頭数ながら、先頭から最後方まではおよそ12馬身と、やや縦長の隊列となった。

京都名物の坂を前に、今度はホワイトストーンが一つポジションを上げて2番手となり、インタースナイパーの直後に付けたが、坂の上りで再びインタースナイパーがリードを2馬身半に広げる。

続く坂の下り。マルシゲアトラス以外の9頭が半馬身~1馬身差で固まり、特に人気の3頭はいずれも手応えが楽で、いつでも抜け出せそうな雰囲気。直線では、好勝負が展開されるかに思われた。

ところが、4コーナーを回ったところで、予期せぬアクシデントが発生する。

2番人気のメルシーアトラが故障しズルズルと後退。競走を中止してしまったのだ。

一方で前の争いは、ホワイトストーンが持ったままでインタースナイパーを交わして先頭に立ち、外からダイユウサクが右鞭を、内からマルカロッキーが左鞭を連打して差し脚を伸ばし、上位争いは完全にこの三頭に絞られた。

しかし、ホワイトストーンは終始持ったままのとてつもなく強い競馬で1馬身半のリードを保ち、最後まで追われることなく1着でゴールイン。

本番の天皇賞春に向けてこれ以上ない前哨戦となり、メジロマックイーンへのリベンジを誓ったのだった。

一方、無事にレースを進めていれば、おそらく間違いなく上位争いをしていたであろうメルシーアトラだったが、診断の結果は、左前脚中手骨の開放骨折。予後不良となってしまい、明暗が分かれる結果となってしまった。

勝ったホワイトストーンの父は、芦毛ブームの先駆けとなったタマモクロスと同じ、シービークロス。現役時は「白い稲妻」と呼ばれ、重賞を3勝するもGⅠを勝てず、種牡馬入り当初は、あまり期待されていなかった。

しかし、初年度産駒のタマモクロスが鳴尾記念を制する前後に、2年目産駒の牝馬シノクロスも2歳重賞を2勝し、シービークロスの内国産種牡馬としての地位は一気に確立され、さらにホワイトストーンが出現した。

ホワイトストーンは、シービークロス4世代目の産駒にあたる。この大阪杯で、通算成績は13戦3勝となったが、3歳時は、大舞台で勝ちきれない一方で堅実な成績を残し、ダービー3着、菊花賞2着、ジャパンカップ4着、そして有馬記念でも3着と、あと一歩のところで栄冠を逃し続けていた。

そのため、大阪杯での持ったままの完勝劇により、ホワイトストーンは競走馬としていよいよ本格化し、同期で芦毛のメジロマックイーンや、やはり同期で、菊花賞と有馬記念で僅差の勝負を繰り広げたメジロライアンと共に、古馬の中・長距離戦線を引っ張っていく存在になると思われた。

──ところが、その後のホワイトストーンはそれまでの堅実な成績から一転、長い長いトンネルへと迷い込んでしまうことになる。

1ヶ月後の天皇賞春。大阪杯と同様に好位からレースを進めたものの、メジロマックイーンの前に6着と敗れると、宝塚記念でも2番手追走から伸びきれず、メジロライアンの4着に敗れてしまう。

秋はオールカマーから復帰し、断然人気に推されるも、地方からの招待馬ジョージモナークを捉えきれず2着に終わると、天皇賞秋は7着、そして60kgの酷量を背負って臨んだアルゼンチン共和国杯では、よもやの15着に大敗してしまった。

また、ホワイトストーンは出走していなかったものの、大阪杯で2着に下したダイユウサクが、年末の有馬記念で、大本命のメジロマックイーンを下す金星を挙げたことも、両馬の明暗を表す出来事といえた。

5歳シーズンはさらに苦戦が続き、6戦して勝利を挙げることはできず。唯一の好走と呼べたのは、シーズン初戦となった中山記念の3着のみだった。

迎えた6歳シーズン。ホワイトストーンは、過去2年より早く、アメリカジョッキークラブカップで始動した。というよりは、有馬記念からの続戦でこのレースを迎えていた。

ここで、柴田政人騎手とホワイトストーンは、生涯初めて逃げの戦法に出た。いや、正確には、最内枠からスタートして気分よく前にいったホワイトストーンを、柴田騎手は無理に抑えようとしなかった。その結果、コーナリングで先頭に立ち、有馬記念2着から、ここは断然人気に推されていたレガシーワールドに対し、あっという間に2馬身のリードを取った。

2コーナーからレガシーワールドが直後に付きプレッシャーを受けつつも、意に介さないように淡々と逃げると、直線の入口で、後続との差を一気に4馬身に広げる。そして、そのままセーフティリードを保ち──ゴール前でやや詰め寄られはしたものの、最後は2馬身半差の完勝。その瞬間、中山競馬場のスタンドからは、温かい拍手が沸き起こった。

その後、ホワイトストーンは7戦し、翌夏の札幌記念を最後に引退。種牡馬となったが、目立った産駒を残せないまま1998年に早逝してしまう。

しかし、GⅠタイトルを手にすることはできなかったものの、オグリキャップやメジロマックイーンと共に、脇役ながら、芦毛ブームを牽引する存在となったことは間違いなく、多くの人の記憶の中で、いつまでも生き続ける存在となった。

久々の勝利を手にしたあの日──中山競馬場のスタンドから沸き起こった温かくも大きな拍手は、それを象徴するような出来事だった。

写真:かず、日刊こうマロネ

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