
古馬牝馬の最強マイル女王を決めるヴィクトリアマイル。オークス、日本ダービーと続く3歳クラシック戦線の牡馬牝馬の頂点を決めるレースの前週に施行されるGⅠレースとして、2006年にスタートした。第1回目の優勝馬は桜花賞馬のダンスインザムード。連覇した牝馬たち(ヴィルシーナ、ストレイトガール)もいれば、ウオッカ、ブエナビスタ、アーモンドアイ、グランアレグリア、ソダシ——。超アイドルホースの名も、歴代優勝馬として刻まれている。
そして、ヴィクトリアマイルという舞台は、ときに「物語」を選ぶ。
主役に選ばれることは、誰もが予想しなかった——いや、誰もが「そこまで望んでいなかったはず」の牝馬が、女王に輝いた年がある。
2024年のヴィクトリアマイル優勝馬、テンハッピーローズである。

15頭中14番人気で重賞未勝利の6歳牝馬、鞍上はこの時点でGⅠ未勝利の津村明秀騎手。出走が決まり、9番枠で確定した時も気づかなかった人が多かったはずだ。実際、私も競馬新聞を手にして、初めてテンハッピーローズが出走していたことを知った。
テンハッピーローズという牝馬は、決して目立ったタイプではない。派手な勝ち星も、圧倒的な瞬発力も、名牝と呼ばれるような華やかな血統背景もない。しかし、彼女の歩んできた蹄跡を振り返ると、地味でもひとつずつ積み重ねられた「底力」が浮かび上がる。そして、彼女が6歳春まで蓄えてきた「底力」が、2024年のヴィクトリアマイルで大爆発を起こした。
■テンハッピーローズの蹄跡
テンハッピーローズは6歳春までの23戦、派手さとは無縁の道のりを歩んできた。7番人気ながら新馬勝ちすると、アルテミスS3着、フェアリーS4着と重賞戦線に顔を出せば、必ずしも勝ち切れないが、掲示板にはしっかり顔を出す。相手が強くても、展開が向かなくても、最後まで脚を使って上位に食い込む。
「勝ち切れないけれど、崩れない」
そんな評価が、いつしか彼女の代名詞になっていた。
3歳春のクラッシック戦線に乗ることを諦めたテンハッピーローズは、1勝クラスから再出発。ひとつずつ勝利を積み上げ、4歳5月のフリーウェイS(3勝クラス)を勝ってオープンクラスに昇格した。
オープンクラスへ昇格後も大きく崩れることなく、善戦を繰り返しながら、5歳夏に新潟の朱鷺S(L)でオープンクラスの初勝利を挙げる。しかしオープン昇格後、重賞挑戦は何度かあるものの掲示板に載る着順を得ることは出来ず、GⅠレースへの出走も5歳暮れ時点でも叶わなかった。
牝馬として次のステージを考え始める6歳の春、テンハッピーローズにGⅠレース出走の機会が訪れた。
2024年5月12日、第19回ヴィクトリアマイル。5枠9番に彼女の名前が刻まれた。
「な、なんと、テンハピちゃんが出ている!」
「やっとGⅠ出走が叶った!」
誰もがこのレースの有力馬としてではなく、出走できたことへの喜びのコメントばかりだった。
しかし、馬は時に、人の想像を軽々と飛び越える——。
■スタートから直線へ——「いつもの位置」から始まった奇跡
トライアルのサンスポ杯阪神牝馬Sを勝ち、J.モレイラ騎手とともにヴィクトリアマイルに向かうマスクトディーヴァが1番人気。ナミュール、ウンブライルと人気が続く中、テンハッピーローズはブービー人気。15頭中14番人気とは、随分と下に見られたな…と思いつつも、オープンクラスでの実績を見れば妥当なところだと思えた。

ゲートが開いた瞬間、テンハッピーローズはいつも通りのリズムで走り出した。前に行きすぎず、後ろに構えすぎず、「彼女らしい」中団の外を回っている。津村騎手の手綱は、長年連れ添った相棒を信じ切っているかのように柔らかに見える。無理に押さえず、無理に動かず、ただ、馬の呼吸に合わせて運ぶ。
そして、先頭馬群が東京マイルの長い直線に向いたとき、テンハッピーローズと津村騎手は大外に進路を取った。白のシャドーロールが溶け込んだような白い鼻面が、大外に取りつくのを、ターフビジョンが捉える。
この時点では、この馬が勝つとことを誰もが想定していなかった。だが、津村騎手だけは違った。手応えが、明らかに違っている。

残り400m——。
大外に付けた津村騎手が、そっと手綱を押し出した。その瞬間、テンハッピーローズの脚が変わった。まるでスイッチが入ったように、栗毛の馬体がスッと加速する。外から一頭、また一頭と交わしていく。先頭をキープしていたコンクシェルに替わり、C.ルメール騎手のフィアスプライドが先頭に立つ。
「外からテンハッピーローズが来た…まさか?」
驚きというより、観客のどよめきが広がる。「信じられないけれど嬉しい」という、何となく温かいざわめきだった。
白い鼻面で栗色の馬体が、風を切って伸びてくる。

残り200m——。
津村騎手の右ムチが入ると、テンハッピーローズはさらに伸びる。フィアスプライドに追いすがるウンブライル、スタニングローズを内に見ながら、彼女だけが軽やかに、真っ直ぐに伸びていく。
残り100m——。
テンハッピーローズは完全に先頭に立つ。津村騎手の表情が変わる。勝てる。本当に勝てる。1番人気のマスクトディーヴァが、馬群を縫って最内から伸びてくるが、テンハッピーローズには届かない
そして——。
ゴール板を、栗毛のテンハッピーローズが真っ先に駆け抜けた。
実況が声を上げ、観客がどよめく。

「なんとなんと、9番テンハッピーローズがヴィクトリアマイルGⅠを制しました——」
■レース後に流れた「ほのぼのとした初夏の空気」
津村明秀騎手。デビューから21年目を迎える中堅ジョッキー。GⅢ勝ちはあれど、GⅠには手が届かなかった。何度も挑み、何度も跳ね返され、それでも諦めなかった津村騎手が、
苦楽を共にした栗毛の牝馬に導かれて、ついにGⅠジョッキーになった。
勝利が確定した瞬間、彼は馬上で何度も何度も頷き、テンハッピーローズの首を撫で続ける。涙をこらえるように、でも笑顔を隠しきれず、ゆっくりとウイナーズサークルに戻ってきた。

ウイナーズサークルでは、ファンからの拍手がいつまでも続く。馬券を外したファンも、テンハッピーローズ推しでないファンもひとつになって、津村騎手の凱旋を称えた。
「よかったね、津村さん」
「ついに報われたね、おめでとうツムツム!」
そんな声があちこちから聞こえ、東京競馬場には優しい空気が流れていた。

優勝レイを掛けて再登場したテンハッピーローズは、勝利の余韻に浸るように耳をピンと立て、スタッフに鼻面を寄せて甘えている。栗毛の馬体が初夏の陽光に照らされ、その姿はまるで「遅咲きの桜」のようだった。
■静かに刻まれた名勝負、2024年ヴィクトリアマイル
テンハッピーローズのヴィクトリアマイル優勝は、「衝撃の大穴」というより、「気づけば心が満たされていた」そんなレースだった。
馬も騎手も派手なスターではない。圧倒的な才能を誇るタイプでもない。
ただ、ただ、真面目に、誠実に、走ることを続けてきた牝馬が、ある初夏の日に最高のご褒美を手にした。
そして、その背には同じように長い道のりを歩んできた騎手がいた。GⅠ騎乗48回目にして、ようやく手にしたGⅠのタイトル。
「長くて長くて…もう勝てないかなという思いはありましたけど…それを諦めたらダメだと毎年思って…何とか毎年GⅠに乗れるように努力して…やっと辿り着きました」
レース直後の、津村騎手の涙のインタビューは、テンハッピーローズの気持ちも代弁しているかのように、私には聞こえた。
テンハッピーローズと津村騎手。その名は永遠に、ヴィクトリアマイルの歴史に刻まれた。

競馬は時には残酷な結果を生む。しかし、こうして優しい物語を見せてくれるから、ファンたちは何度も競馬場へ足を運ぶのだと思う。
Photo by I.Natsume
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