チェッキーノ - 夏の新潟に刻まれた、「栗毛の才媛」のラストラン

夏の新潟開催を語るなら、まず思い浮かぶのが関屋記念だ。灼けるような陽射しの下、真っ直ぐに伸びる新潟外回りの芝1600mを、馬たちが一気に駆け抜ける。その舞台は昔から「夏のスピード決戦」の象徴であり、今もなお好タイム決着が名物となっている。2025年にはカナテープが1分31秒0のコースレコードで駆け抜け、観客を沸かせた。近年、日本レコードの舞台は中山や東京に移った印象があるが、かつてはこの関屋記念こそが「日本最速のマイル」を更新する場所だった。

1970年代、1600mで1分35秒台なら好タイムと言われていた時代に、1975年の関屋記念でファイブワンが1分33秒8の日本レコードを樹立し、長く破られなかった「1分34秒の壁」を突き破った。その勢いは止まらず、1984年にはハヤテミグが同競走において1分33秒3という時計を記録。中間、他場で更新されていた日本レコードを、再び新潟の舞台で更新した。

さらに1999年、牝馬リワードニンファが1分31秒6という衝撃的なタイムで駆け抜け、ついに「1分31秒台の時代」が幕を開ける。そして現在、日本の芝マイル戦は1分30秒台へ突入し、2019年の京成杯オータムハンデ(中山)でトロワゼトワルが記録した1分30秒3が日本レコードとして君臨している。

私にとっての関屋記念といえば、やはり2018年のプリモシーンが優勝した一戦が真っ先に浮かぶ。あの年も例に漏れず、1分31秒6という決着で、関屋記念らしい「真夏のマイル戦」の醍醐味が凝縮されていた。もちろん、勝ち馬プリモシーンの切れ味は鮮烈だった。しかし、私の記憶により深く刻まれているのは、そのレースを最後にターフから去って行った一頭の栗毛の牝馬だ。屈腱炎に苦しみ、長い休養を挟みながらも、わずか7戦で競走生活を終えた名牝──チェッキーノである。

新潟の夏の光の中を淡々と走り、しかし気高く去っていったその姿は、関屋記念が刻んできた数々の好タイムとはまた別の意味で、忘れがたい思い出となって残っている。

未勝利勝ちから3連勝でオークス2着、そして…

チェッキーノは、父キングカメハメハ、母ハッピーパスの6番仔として生まれた。名門・藤沢和雄厩舎に所属し、兄には札幌2歳S、東スポ杯2歳Sを制したコディーノがいる。底知れぬ素質を示しながら皐月賞3着、日本ダービー9着とクラシックでは涙をのんだ兄は、古馬になって病に倒れ、志半ばでこの世を去った「幻のGⅠ馬」だった。

黒鹿毛でたくましい馬体の兄とは対照的に、チェッキーノは栗毛の輝きがひときわ映える、美しい馬体の持ち主だった。デビュー前から「藤沢和厩舎の次なるスター候補」として注目を集めていた。11月、府中の新馬戦で2着に敗れると、続く中山の未勝利戦を危なげなく勝ち上がる。軽やかに抜け出したその走りは、翌春のクラシック戦線を思い描かせるに十分だった。

3歳初戦は桜花賞トライアルのアネモネS。好位からスッと抜け出し、逃げ粘るアッラサルーテを1馬身1/4突き放して優勝。桜花賞の優先出走権を手にしたが、陣営は「距離が伸びた方が良い」と判断し、王道のフローラSからオークスへ向かうことを選んだ。

迎えたフローラSは、ビッシュ、パールコードとの三強ムード。チェッキーノは中団でじっくりと脚を溜め、直線で一気に末脚を解き放つ。鮮やかな3馬身差の完勝で、重賞初制覇を飾った。

そして念願のクラシック本番、オークスへ。桜花賞2着のシンハライトとの一騎打ちが予想され、距離が2400mに伸びることでチェッキーノ有利との声も多かった。しかし、直線の攻防は想像以上に激しかった。外から力強く伸びるチェッキーノ。内ではビッシュの横を縫うようにシンハライトが迫る。最後はシンハライトがわずかに前──チェッキーノは懸命に食い下がったが、クビ差届かなかった。

悔しさと同時に、「秋になれば逆転できるのではないか」という期待を抱かせる2着だった。成長の余地はまだある。夏を越え、秋華賞へ──そんな未来図が誰の胸にも描かれていた。

しかし、その希望は突然途切れる。夏の札幌・クイーンSを目前に、チェッキーノは屈腱炎を発症してしまう。

闘病の日々と、復帰の道への小さな灯

オークス後、夏を全休して秋に備えたシンハライトとは対照的に、チェッキーノは札幌のクイーンSを選んだ。牝馬限定、3歳なら52㎏で出走できる──条件は申し分なく、ここを軽く勝って秋華賞へ向かう。誰もがそう信じて疑わなかった。

しかし、出走馬が確定し、枠順発表を待つ金曜日。突然、ネットの競馬ニュースで流れた一報は、全国の競馬ファンに衝撃を与えた。

「オークス2着馬チェッキーノ、左前浅屈腱炎を発症」

その瞬間から、チェッキーノの長い闘病生活が始まった。

当初の見立てより症状は重く、再起は難しいのでは──そんな噂がささやかれるほどだった。それでも陣営は希望を捨てず、懸命な治療とケアを続けた。エコー検査で患部の状態を確認しながら、炎症が落ち着くと引き運動、トレッドミルでの軽い運動へと段階を踏む。ウォーキングマシンでの運動が始まる頃には、ようやく「復帰への階段を一段上った」と感じられるようになった。脚元の腫れを細かく確認しながら、運動量を少しずつ増やす。地道で、慎重で、時間のかかるリハビリだった。毎日、ウォーキングマシンとトレッドミルでキャンター運動を繰り返すチェッキーノの姿は、沈黙の闘志そのものだった。

発症から10か月──「チェッキーノが騎乗運動を再開した」という朗報が届く。ようやく鞍を置き、少しずつ距離を延ばしながら、再びターフを目指す日々が始まった。

発症から1年が過ぎ、秋の府中か暮れの中山で復帰か──そんなニュースに胸が高鳴った。あの栗毛が、もう一度ファンの前に姿を見せる。そう信じて、誰もが帰厩の報を待ち続けた。

だが、思った以上に回復は進まず、チェッキーノが美浦トレセンへ戻ってきたのは翌年の3月。馬齢はすでに5歳になっていた。

長い時間をかけて、懸命に歩み続けた闘病の日々。

その背中には、もう一度ターフへ──そんな小さな灯が、しっかりと灯っていた。

約2年の長い闘病を越えて、再びターフへ

美浦トレセンでゲート試験を無事クリアしたチェッキーノは、いったんノーザンファーム天栄へ移動し、復帰へ向けた最終調整に入った。慎重に状態を見極めながら進められた調整は、やがて「復帰戦を組める」と判断できる段階へとたどり着く。

5月、チェッキーノは再び美浦へ帰厩した。

そして、長い闘病生活の果てに選ばれた復帰戦は、6月の阪神開催・オープン特別の米子S(芝1600m)。アネモネS以来のマイル戦で、チェッキーノは再びファンの前に姿を見せることになった。

迎えた米子S。鞍上は杉原騎手。

馬体重は休養前から38㎏増と大幅に増えており、まずは「無事に走り切ること」が最優先の一戦となった。レースでは後方の内でじっくりと脚を溜め、直線ではラチ沿いから懸命に伸びた。しかし、速い時計の決着に対応しきれず、結果は1秒2差の7着。それでも、長い休養を経てターフへ戻ってきたチェッキーノの姿は、ただそれだけで胸を熱くさせるものがあった。

闘病の日々を越え、ようやく戻ってきた栗毛の才媛。その走りは、復帰への道のりがまだ続いていることを物語っていた。

夏の新潟、静かに幕を閉じたラストラン——関屋記念

レース後ノーザンファーム天栄に戻り、再調整を始めたチェッキーノ。レース後は超久々の実戦だったため、疲れを残したが、復帰2戦目を8月の新潟開催で施行されるマイル重賞、関屋記念に決定した。前走の米子Sでは、前進を見せながらも、まだ本来の姿には遠かった。馬体は増え、動きにも重さが残る。復帰戦を終えた陣営は「次走でさらに良くなるはず」と慎重に状態を見極め、時間をかけて調整を進めた。

迎えた次走は、8月の新潟・関屋記念。前走から馬体を14㎏絞り、486kgでの出走。数字だけ見れば復調の兆しがうかがえたが、それでも「本調子はまだ先」という空気が漂っていた。長い闘病の影は、完全には消えていなかった。

スタートはわずかに遅れた。ゲートの中でモサモサと落ち着かず、杉原騎手がタイミングを合わせきれなかったという。チェッキーノは後方からの競馬を余儀なくされる。新潟の長い直線を見据え、じっくりと脚を溜める形になった。

新潟外回りの長い直線。大外へ持ち出されたチェッキーノは、かつてオークスで見せた末脚を思い出させるように、一完歩ずつ前との差を詰めていく。チェッキーノは懸命に伸びた。ジワジワと差を詰め、前走とは明らかに違う反応を見せる。しかし、残り200mで脚色が鈍ってしまう。長い休養で削られた実戦の底力は、まだ完全には戻っていなかった。

結果は勝ち馬から0秒9差の7着。

掲示板には届かなかったが、米子Sからの前進は誰の目にも明らかだった。杉原騎手も「次はさらに良くなると思います」と語り、陣営も秋へ向けて希望を抱いた。チェッキーノ自身も、ようやく競走馬としてのリズムを取り戻しつつあるように見えた。

──しかし、その希望は再び途切れる。

レース後、チェッキーノは左前浅屈腱炎を再発した。

あれほど時間をかけ、慎重に積み重ねてきたリハビリの階段が、音もなく崩れ落ちるような知らせだった。関係者は最後まで可能性を探ったが、再びターフへ戻るには、あまりにも大きな代償を払わなければならない。さらに、残された現役生活は6歳の3月まで。チェッキーノは競走馬としてのキャリアを閉じる決断を受け入れるしかなかった。

2018年の夏、新潟の青空の下で走った関屋記念が、チェッキーノのラストランとなった。

大外から懸命に伸びたあの直線。息切れしながらも、前へ前へと脚を運んだ姿。そのすべてが、長い闘病を越えてなお「走りたい」と願った栗毛の才媛の、最後の輝きだった。

競走生活はわずか7戦。

GⅠタイトルにも届かなかった。

それでもチェッキーノという名を忘れられないのは、速さだけではなく、戻ってこようとした強さを私たちは知っているからだ。

真夏の新潟で迎えた最後の直線。あの日の栗毛の背中は、今も夏風の向こうで輝いている。

Photo by I.Natsume

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