悔しさは、時に、奥底に眠る才能を爆発させる。
それは、人間に限らず、馬にも言えるのかもしれない。
あの"女帝"の娘として、デビュー前から大いに期待されていた牝馬がいた。しかしデビューすると、同期のライバルが牝馬三冠を達成、悔し涙を呑んだ。だがその涙は、決して無駄ではなかった──。
その牝馬の名は、アドマイヤグルーヴ。
"グルーヴ"という名は、母が由来である。彼女の母はエアグルーヴ…ダイナカールとオークス親仔制覇を果たし、天皇賞(秋)で牡馬を蹴散らした"女帝"の元祖とも言える存在である。当然、周囲の期待は大きい。セレクトセールで2億3000万円という高額で落札されたことからも、その前評判の高さが窺える。
しかし、彼女は気性面に問題を抱えていた。何とか出走権を勝ち取って臨んだ桜花賞は3着。オークスでは、イレ込みが原因で7着と掲示板外に敗れた。秋はローズステークスでは勝利したものの、秋華賞は2着と惜敗。彼女は牝馬三冠でいずれも1番人気に支持されていただけに、陣営の悔しさは計り知れないものだっただろう。
この2003年、牝馬三冠クラシックにおいて、偉業を達成した馬が現れた。
その馬は、スティルインラヴ。メジロラモーヌ以来となる史上2頭目の牝馬三冠を成し遂げた“女王“である。三つのレイを携えた女王の姿は、彼女の瞳には偉大な同期の走りはどのように映っていたのだろうか。それは、アドマイヤグルーヴ自身にしか知り得ないことだが、その後の"物語"を考えるに、こう思っていたのかもしれない。
──もう彼女にだけは、負けたくない。
奥底に燻る勝利への悲願が燃え始めた瞬間であった。
そして、挑んだのが、エリザベス女王杯であった。
初めての古馬との戦いを迎えると同時に、偉大なる同期と再び競演することとなった。この日、彼女は過剰にイレ込むことをせず、落ち着いてゲートに入ったという。"その時"を今か今かと狙っていたのかもしれない。
ゲートが開かれる。オースミハルカとメイショウバトラーがレースを引っ張った。スティルインラヴは中団につける。その近くには、オークス馬のレディパステルがいた。先輩オークス馬をマークしていたのかもしれない。対するアドマイヤグルーヴは中団やや後方の外側に居た。
──今度こそ、今度こそ、あの子を私自身の脚でとらえてみせる。
レースは縦長の展開となった。先頭まで5、6馬身はついただろうか。
女王と雪辱を果たしたい彼女は虎視眈々と道が開くのを待ち、先頭を狙っていた。
最終直線、先頭のオースミハルカを目掛けてスティルインラヴがやってくる。四つめのG1勝利に夢を見たファンも多いことだろう。しかし…その女王に涙を呑んだ同い年の女の子がいたのである。牝馬三冠で全て1番人気に推され、勝利を期待されながらも、悔しさを味わい──次こそはと執念を燃やしていた女の子が。
──忘れているんじゃないの? 私のこと。
外からやってきたアドマイヤグルーヴ。そう言っているように見えた。そして、彼女は同期の偉大なる女王に照準を合わせ、追い込み、脚を伸ばしていく。
──絶対に、絶対に、今回は負けないから。
力強い言葉と共に、大地を震わせているように見えた。
しかし、女王は女王。
スティルインラヴにも“牝馬三冠“という意地がある。
ここで、白旗を揚げるわけにはいかない。
──私だって、負けない。三冠のプライドに懸けて。
そうして始まったのは、彼女たちの意地とプライドをかけた、火の出る様なデットヒートが始まった。彼女たちは、オースミハルカをとらえ、ハナを主張し合った。勝利への激しい想いと偉業を背負う覚悟がバチバチと火花を散らしている。
実況は"スティルインラヴ"と"アドマイヤグルーヴ"の名を交互に叫んだ。
どちらも先頭を主張する。絶対に譲らない。絶対に、絶対に、彼女には、あの子には負けたくはないのだ…と言わんばかりに。
そのまま、二頭は並んでゴール板に飛び込んだ。だが、勝敗は比較的すぐに決した。凌ぎ切って勝ったのは…"勝利への激しい想い"であった。
牝馬三冠でいずれも1番人気に推されるも、ライバルに泣かされてきたアドマイヤグルーヴが、悲願であるG1を掴み取った瞬間であった。母のエアグルーヴはエリザベス女王杯に出走するも、勝つことはできなかった。故に、母の忘れ物を拾ったとも言えるのかもしれない。そしてこの一戦は、彼女の中に流れる女帝の血が覚醒した瞬間でもあったのである。
2003年の女王は誰か…牝馬三冠馬となったスティルインラヴもそうであるが、同時に、古馬を退け、その三冠馬に勝ったアドマイヤグルーヴもまたそうであろう。この年は、二頭の"女王"が牽引していたと言える。時が経っても、女王達の競演というものは、名勝負として語り継がれていく。接戦というのは、いつの時代も胸を熱くさせ、ハラハラと気持ちの良いものだ。
翌2004年、古馬となったアドマイヤグルーヴは前年と同じく、外から脚を伸ばして先頭をとらえ、脚を伸ばしてゴール板に飛び込んだ。エリザベス女王杯連覇である。悔しさに涙を流す女の子はそこにはいなかった。そこにいたのは、その血を開花させた気高く美しい女王であった。ちなみに、同レースを連覇したのは、2023年現在、彼女を含めて4頭しかいない。
アドマイヤグルーヴは、2005年の阪神牝馬Sを最後に引退。繁殖牝馬となった。しかし、遺した子はわずか5頭のみ。2012年10月15日に胸部出血のため、急死した。もっと長く生きて、もっと夢を見せてほしいと想ったファンは多いことだろう。
──だが、たった5頭の中から再び物語は生まれる。
彼女の最後の子は変則三冠を達成したキングカメハメハとの間に生まれた牡馬だった。
宿命の血を受け継いだ少年は、2015年、皐月賞と日本ダービーを制して、二冠馬となり、"荒々しき王"として世代の頂点に立つ。その子の名は、ドゥラメンテ。彼によって、史上初母子による4世代連続G1制覇を成し遂げた。
しかし、その王者もまた、2021年、初年度の産駒が菊の大輪を咲かせる前に、母の元へ旅立ってしまった。
王様が二冠馬となってから8年後、私たちは、リニューアルオープンした京都競馬場で偉業を目の当たりにすることとなる。史上7頭目となる牝馬三冠馬が誕生したのだ。
その名はリバティアイランド。
父の名はドゥラメンテ。
その日は、10月15日であった。
ひょっとしたら、アドマイヤグルーヴは自ら背負った宿命を開花させ、仁川のターフを空の上から眺めていたのかもしれない。そして、秋華賞最後の直線で先頭に立って突き進む彼女に対して、こう言って背中を押した様な気がしてならない。
『可愛い可愛いお嬢さん。私も力を貸すわ。おばあちゃんを超える強い女の子になる力を』
気高く美しい女王がまだ女の子だった頃、涙を呑んだ牝馬三冠を孫が達成するという物語が生まれたのには、エリザベス女王杯が不可欠であろう。偉大なる血は、受け継がれていく。宿命を背負う、強く美しい想いが激しく心で燃えさかり続ける限り。
写真:ふわまさあき、Horse Memorys、かぼす