[連載・馬主は語る]優駿スタリオンステーションへ(シーズン2-46)

少し冷静になって考えてみると、優駿スタリオンステーションが連絡すると言ったのは、明日の枠に空きがあるからではないでしょうか。3枠とも埋まっていればその場で断られたでしょうが、断られなかったということは、おそらく1枠ぐらいは空きがあって、そこに優先したい株主や関係者が入ってこないかギリギリまで待って、もし誰も来ないようであれば僕たちに順番が回ってくるということです。可能性はなくはないのでは、と僕は踏んでいました。

ただ、時間帯はどこが空いているのか分かりませんので、もし朝イチの枠であれば、僕が種付けに立ち会うためには前日入りしている必要があります。昼の枠であれば、当日の早朝に出発すればギリギリ間に合うはずです。夕方の枠であれば最高です。どの種牡馬にどの枠で種付けしてもらえるのか、全く見えない状況がしばらく続きました。

そんなことを考えながら、スプリングステークスをベラジオオペラが快勝するのをテレビで眺めていました。ベラジオオペラは昨年に参加した千葉サラブレッドセールの出身馬。66頭の上場馬の中で、十数頭にしか付けなかった〇の評価をした1頭でした。雄大な馬格と筋肉量の豊富さが伝わってくる馬体、そして坂路での追い切りも追い出さされるとグッと伸びる姿が印象的でした。とはいえ、さすがに4,851万円(税込み)と僕には到底買える額ではなく、そもそも父がロードカナロアである時点で購入候補からは消した馬の1頭でした。サラブレッドの世界はお金があるからと言って名馬を手に入れることができるとは限りませんが、お金があれば買えたかもしれない名馬もいるということを実感します。

夕方になって、慈さんから電話がかかってきました。「治郎丸さん、朗報です!優駿から連絡があり、チュウワウィザードが明日の12時半の枠で入れるそうです」と第一声。僕の読みは正しく、心の中でガッツポーズをしながらも、12時半という時間帯についてはいちばん嫌なところが空いていたものだと苦笑いしました。17時の枠であれば余裕を持って当日行くことができるのですが、12時半となれば前日入りするか朝イチで向かうかのいずれかになります。

すぐに調べてみると、本日、羽田空港発の最終便にはギリギリ間に合わなそうです。ということで選択肢はひとつ。慈さんに聞くと、12時半までに優駿スタリオンステーションに着いているためには、11時半には碧雲牧場を出発していなければならず、せめて11時までには牧場まで来てもらいたいとのこと。検索してみると、羽田空港を6時半発の始発の飛行機に乗って行けば、バスを乗り継いで、何とか時間までに辿り着けそうです。

翌朝、僕は3時半に起床しました。こんなに早く起きたのは生まれて初めてです。生産者の方々にとっては日常的な時間かもしれませんが、僕にとっては太陽の光が全くない真っ暗な中で動き始めるのは非日常的です。最寄りの駅まで自転車に乗っていくのですが、人っ子ひとりおらず、車1台でさえも走っていません。「今際の国のアリス」の中のように、何ものかによって世界がジャックされてしまったかのような不思議な風景でした。新横浜駅までは電車で行き、そこからバスに乗って羽田空港国内線ターミナルを目指します。バスに乗るときもまだ真っ暗でしたが、バスが発車して、しばらく映画「BLUE GIANT」のサントラで上原ひろみが鳴らすアップテンポのピアノの音を聴きながら、トンネルを抜けた瞬間、朝日が昇って光が射してきたのです。夜明けだと感じました。

空港内には始発にもかかわらず、たくさんの人たちがいました。春休みに入ったからか、大学生に見える若者たちがチェックインをしています。マスクを外した若い女性の姿もちらほらと見られ、素直に美しいなと思います。機内に入っても、男性たちも2、3割は素顔で、僕の周りの大学生たちは久しぶりの北海道旅行でテンションが上がっているのか、大騒ぎしていて、微笑ましく思えます。若い人たちには、大人や社会の都合で押し付けてくるおかしなルールや理不尽に対して、耳を貸すことも屈することなく、周りの人たちの目など気にせず、この息苦しい日本社会を突破して行ってもらいたい。王様は裸だと見抜いて言える勇気と行動力こそが、人生の成功の秘訣です。抑圧された暗い世界を生きていくのか、自由で明るい世界を歩んでゆくのかは自分次第なのです。

新千歳空港からバスを乗り継いで、碧雲牧場の近くの冨川大町まで着くと、慈さんの奥様である理恵さんが待ってくれています。「おーっす!」と挨拶してくれ、今日は週に1回の休みの日だというのに迎えに来てくれたことに感謝です。昨夜、お産があったようで、あまり寝ていないのにもかかわらず、いつも明るくて、一緒にいて楽しい女性です。碧雲牧場に着くと、「治郎丸さん!」と遠くから慈さんの声がしました。聞くところによると、昨日生まれたアドマイヤマーズの男の子を抱き抱えたときの感触が、これまでに取り上げてきたどの馬よりも良かったそうで、手応えを感じるとのこと。昨日の15時から一睡もせずにいる徹夜明けのハイテンションと生産馬のできが良かった興奮が相まって、いつにも増して嬉しそう。東京の人たちとはまた違う、日高の生産者たちのこの底抜けの明るさが僕は大好きです。

すでに馬運車が準備されており、落ち着く間もなく、出発のときが訪れました。スパツィアーレととねっ子が馬房から連れ出されてきます。とねっ子はお母さんについて行こうと頑張って歩いています。子どもと離れてしまうと母馬は探そうとするので、なるべく母と子が離れないようにして歩かせるのがコツだそうです。意外とスムーズにスパツィアーレもとねっ子も馬運車に乗り込み、スパツィアーレだけは紐で馬運車に固定され、とねっ子はお母さんの周りを動けるようなスペースがあります。分かっているお母さんだと馬運車のどちらかに寄って立ち、とねっ子が動き回るスペースをつくるそうです。スパツィアーレはさすが、左に寄って立っています。馬運車は揺れるため、馬たちはバランスを崩したりしないように立っているだけで精一杯で、とねっ子も歩き回ったりする余裕はありません。馬運車の中で暴れたり、どちらかが倒れたりして怪我をしないか、僕は心配で仕方ありませんが、こちらが思っているよりは大丈夫そうですね。

僕たちも馬運車に乗り込み、優駿スタリオンステーションに向けてのんびりと走り出しました。時速8kmの芝刈り機に乗って、病気の兄に会いにいく73歳の老人を描いた映画「ストレート・ストーリー」をふと思い出してしまいました。およそ1時間の道中、慈さんとの話が尽きることはありません。慈さんは僕と話しながらも、「ここの牧場は良く手入れされているなあ」とか、「土地が傷んでいなくてうらやましいなあ」など、左右に広がる他の牧場の土地が気になるようです。真の生産者にとっては、馬だけでなく、土地も大事な関心ごとなのだと分かります。

「そういえば、ダートムーアの仔が惜しい2着でしたね」と言われ、チェックしていなかったことに気づかされました。あとから確認してみると、中山競馬場の3月19日の第1レース未勝利戦において、3番人気を背負ってダートの1800mに出走したグレイウェザーズは、中団からレースを進め、最後の直線で馬群をこじ開けるようにして伸びて2着を確保していました。勝った馬と3着馬は牝馬ながらにして500kgを超える馬体を誇る中、グレイウェザーズは430kg台と小さな馬体ながらも割って入ったのですから大健闘です。走る気持ちは強いことが伝わってきますので、このまま順調に行けば、近いうちに勝ち上がりのチャンスは回ってくるでしょう。

何ごともなく、あっという間に、優駿スタリオンステーションに到着しました。時間もぴったりです。受付を済ませるために事務所に入ると、そこから種付け場が見えます。かつて社台スタリオンステーションの取材に行ったとき、かなり遠目から種付けの模様を見たことがあるのですが、今回はもっと近く、種付け場の中に入って見学することができます。事務所の大きなホワイトボードには、種牡馬の名前がずらりと並んでおり、その横に今日の種付け予定が書き込まれています。パッと見て、どの種牡馬が今稼働しているのが一目瞭然です。今日はシルバーステートとチュウワウィザード、ミスターメロディに種付けが集中しているようで、シルバーステートとチュウワウィザードは朝昼夕の3本立てでした。シルバーステートは当然として、新種牡馬であるチュウワウィザードの人気の高さもうかがえて、今日1枠空いていたのはラッキーであったことが分かります。

ひとつ前のシルバーステートの種付けが終わり、すぐに僕たちの番が回ってきました。

(次回へ続く→)

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