身長172cmのすらりとしたスタイルに、爽やかな笑顔。
紳士的な佇まいに、確固たる技術による美しい騎乗。
多くの黄色い声援を受けてきた、日本近代競馬における中心人物の一人とも言える武邦彦氏が、2016年8月12日、亡くなりました。
親子二代でのダービー制覇をはじめ、多くの功績を残してきた武邦彦氏について、いくつかの点をピックアップして振り返っていきたいと思います。
1.武邦彦騎手の歩んできた時代とは?
日本中央競馬会が発足したのは1954年、吉田茂内閣の指導によるものでした。現在の有馬記念の前身となる中山グランプリの第一回が行われたのは1956年、中央競馬場に初めてダートコースが出来たのが1961年となります。
武邦彦氏が騎手としてデビューを迎えたのは、まさにそのような黎明期である1957年の事でした。
つまりデビュー当初はダート競走がなかったという事になりますね。
ジャパンカップの創設は1981年ですので、まだ、日本馬が海外有力馬に打ち勝つなど夢のまた夢といった時代と言えます。
当時の年間レース数は2284回。
2015年が3454回だった事を考えると、1000回以上も少ない計算になります。
(ちなみに、来場者数をみても、1957年が約336万人、2015年が631万人と、差があります)
そんな環境のなか、通算1163勝という大記録を打ち立て、当時の関西所属騎手として最多勝記録を樹立したという実力者が、武邦彦氏です。
2.武一族の家系とは?
「競馬一族」「競馬界のエリート一家」などと呼ばれる、武一族。
その武一族の家系のルーツは、なんと平安時代までさかのぼります。大隅国(現在の鹿児島県)の豪族、禰寝氏(ねじめし)が、彼らの先祖となります。
禰寝氏は、南北朝時代には島津氏とともに足利尊氏に加勢したり、室町期には琉球との貿易で勢力を拡大したり、一時期は屋久島を領地とするなど、歴史的にも大きな功績を残してきた一族とのことです。近代に入ってからは西郷隆盛とも親戚関係を結んでいるようですが、西郷家といえば、日本の近代競馬における「最初の日本人馬主」も西郷家の西郷従道氏ですので、まさに日本競馬史に深く関わってきた一族だと言えましょう。ちなみに禰寝氏の一族からは、競馬以外でも、元総理大臣の山本権兵衛氏や、ベルリン国際映画祭で国際平和賞を受賞した戦後の映画スター上原謙氏、直木賞受賞作家のねじめ正一氏など、多数の著名人が輩出されています。
その禰寝氏の一族で、明治維新後、函館に渡ったのが武邦彦騎手の祖父、武彦七氏でした。武彦七氏は函館競馬会の発足に深く携わったほか、多くの競馬関係者を育て上げた功績などから北海道馬主協会の理事も任されていました。
そのほかの親戚を見ても、牧場主や調教師・騎手がずらり。
そんな環境のなかで育ってきた武邦彦氏が、競馬に興味を持つのは必然だったのかもしれません。
3.武邦彦「騎手」の相棒といえば?
ロングエース
武邦彦騎手のダービー制覇は、馬インフルエンザの影響で開催が7月にされた、通称『七夕ダービー』でした。騎乗馬はこの馬、ロングエースです。
ロングエースは、トラブル等によりデビューが年明けとなってしまったという背景があり、クラシック路線に乗せるため、皐月賞前には短期間にも関わらず5戦もこなしていました。その疲労もあってか、皐月賞では初の敗北を経験しています。その疲労をいかに回復するかがダービー勝利へのカギでしたが、ここで思わぬ朗報が飛び込みます。それが先述した、ダービー開催の延期です。
ダービーが7月に実施されたという事は、ロングエースと武邦彦騎手にとっては大きな追い風となった事でしょう。
とにもかくにも、この勝利によって、武邦彦騎手はダービージョッキーの仲間入りを果たし、その名声を確固たるものとしていきます。
ロングエース自身は引退後、種牡馬として、宝塚記念勝ち馬テルテンリュウなどを出しました。内国産種牡馬不遇の時代において、これはかなりの実績といえます。
ちなみにロングエースの半兄・ロングワン(重賞5勝)も武邦彦騎手が騎乗していました。
キタノカチドキ
武邦彦騎手が騎乗していた菊花賞馬といえば、タケホープやインターグシケンなどもいますが、個人的にピックアップしたいのはこの馬です。
キタノカチドキはロングエースと反対に、日程のずれ込みで悪影響を受けた馬でした。
春クラシック本番まで6戦無敗で進んだキタノカチドキでしたが、なんと皐月賞が厩務員ストライキの影響で3週間も延期になったのです。いつ来るかわからないストライキの終了に備え、毎週レース前追い切りをしなくてはならず、体力はどんどん消耗していきました。有力馬として、皐月賞前に体調を維持・管理していくのは非常に難しかったのは想像に難くありません。
その皐月賞は武邦彦騎手の好騎乗もあり何とか勝ったものの、すでに余力はなくダービーでは3着に沈みます。
菊花賞は負けられない。
周囲からのプレッシャーもさぞかし大きかったと思います。しかしその重圧をはねのけ、菊花賞では万全のレース運びで、勝利を収めます。血統による距離の限界が囁かれていた中で、スタミナを消耗させない素晴らしい騎乗でした。
この勝利が評価され、その年の年度代表馬の座にも輝きました。
ちなみに武邦彦騎手は、この馬の半妹・リードスワローでエリザベス女王杯も勝利しています。さらにキタノカチドキの甥っ子・ニホンピロウイナーでは、武邦彦氏が騎手として最後の重賞勝利をあげています。
4.武邦彦「調教師」の育てた名馬といえば?
バンブーメモリー
武邦彦調教師の手がけたG1馬は2頭います。
朝日杯を勝利しJRA賞最優秀3歳牡馬に輝いたメジロベイリー。そしてこの、バンブーメモリーです。
オグリキャップの同期であり、短距離戦線を賑わせた名馬も、武邦彦調教師の管理馬でした。
この馬のG1制覇は、どちらも劇的なものでした。
一つ目のタイトルは安田記念。
メンバーが手薄とみるや、重賞未経験のまま連闘させて勝利をもぎ取ります。名手岡部騎手の好騎乗もあり、まさに「魔法」のような勝利でした。
続くタイトルは、G1昇格後初めてのスプリンターズS。
こちらは息子である武豊騎手との親子制覇でした。武邦彦調教師として、非常に思い入れのある馬だったらしく、この勝利は周囲から見ても感激的なものでした。
なお、この馬の半弟である重賞馬・バンブーゲネシスも武邦彦調教師が管理していました。
ダンシングターナー
こちらの馬は、4年間の現役時代を通じて様々なレースにチャレンジした馬です。
芝では1400m〜2600m、ダートでは1400m〜2500mと、非常に幅広い条件に挑戦しています。実際に勝ったレースを見ても、芝1800mやダート2300mと多彩です。しかも多くのレースは掲示板に載っているという、高い順応性が魅力的な馬でした。
では、大きく負ける事はあまりなかったのに、何故このようにたくさんの条件を試したのでしょうか?
個人的な推測ですが、武邦彦調教師は、彼の秘めたるポテンシャルに気がついていたのだと思います。条件戦好走だけでは満足がいかない、そのポテンシャルに。
最終的に、彼の活躍の場は障害レースへとうつります。障害5戦目・阪神スプリングJでは、JG1馬のランドパワーに勝利し、ついに重賞馬となりました。
名手が諦めずにその馬の実力を信じたからこそ、切り拓かれた道なのではないでしょうか?
5.最後に
ここまで武邦彦氏の経歴を振り返ってきて思うことは、「繋がり」を大切にする精神が素晴らしい方なのだろう、という事です。
騎手としても調教師としても、兄・姉から関わってきた馬たちの活躍が目立ちます。これまでの繋がりを大切にしてきたからこそ、信頼が生まれ、成功へと導かれたのではないでしょうか。
そしてその精神は三男・武豊騎手、四男・武幸四郎騎手にも受け継がれていることでしょう。
武豊騎手は、この秋アメリカに渡り、ビッグタイトルへチャレンジします。活躍を期待しましょう。
武邦彦氏のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
写真:ゆーた