[連載・片目のサラブレッド福ちゃんのPERFECT DAYS]ラブブ上等(シーズン2-32)

碧雲牧場に着いて、荷物を置くとすぐに僕はラブブの元に駆けつけました。ラブブとは4月13日に生まれた、パールシークレットとダートムーアの間の子どものあだ名(幼名)です。額の流星がハートマークをしていて可愛いことに流行りのキャラクターの名前を模して、理恵さんがつけてくれました。実はラブブが生まれて1か月経ったこの時点で、僕はラブブの性別を知りません。会ったときのお楽しみとして、教えてもらわずにここまで来たのです。

心の中では女の子だと思っていました。生まれた当初は、ルリモハリモとも福ちゃんとも違ったシュッとした顔つきから、もしかしたら男の子かと期待していましたが、ハートマークの流星やラブブという幼名や線の細い体つきから、女の子っぽいかなと気づきました。確信に変わったのは、理恵さんとの会話の中で、「治郎丸さんはムーちゃん(ダートムーア)にちゃんと男の子がほしいとお願いした方がいいよ。そうじゃないと女の子しか産まないよ」と聞いたとき。ということはつまり、ラブブは牝馬じゃないかと分かったのです(笑)

まあ、性別当てはゲームのようなものであって、正直に言うと、牡馬であっても牝馬であっても、どちらでも良いかなと考えていました。昨年、ムー子があのようなことになり、性別よりも無事に生まれて育ってくれることが何よりだと心から思いますし、父パールシークレットは小柄で幅のあるタイプの馬体だけに、たとえ牝馬が出たとしてもヒョロヒョロにはならないかなと、設計上は計算していたつもりです。

少しビビりなところがあると聞いていたのですが、実際に放牧地で触れてみると、意外と人懐っこくて、自ら人間に向かって来て、僕の手をぺろぺろ舐めてくれます。ルリモハリモは母の後ろに隠れるタイプでしたし、福ちゃんは群れの中に入ると一歩下がって積極的に前に出るタイプではありませんでした。ラブブは人間に良く気がつき、ゆっくりとですが前に出てきます。ハートマークの流星を撫でながら、思わず「可愛い」を連発してしまいました。

そうこうしていると、大狩部牧場の下村社長がやって来ました。彼と会うのは久しぶりです。電話をしたり、YouTubeチャンネル上では良く見ていますが、実際に会うのは2、3年ぶりでしょうか。今日は僕が碧雲牧場に来ることを知って、パールシークレット×ダートムーアの仔を見に来てくれたのです。

「馬主は語る」の連載から読んでくださっている読者の方々は覚えているかもしれませんが、僕と下村社長と慈さんが一緒に2021年にノーザンファームの繁殖牝馬セールに行き、ダートムーアを購入したのです。ダートムーアはあのセリの中で第一希望の馬でしたし(買えると思っていませんでした)、下村社長もお勧めの1番馬でした(全兄フラムドパシオンが大好きだったそうです)。唯一、僕が気になったのは当時14歳という年齢でしたが、下村社長の「14歳は最も脂が乗っている時期で全く心配ありません」というひと言で、ダートムーアで行こうと決意しました。

ふたりの意見が一致した馬をまさか手に入れられたときは、大興奮でした。セリ落として、僕とシモジュウと慈さんの3人で記念撮影をしたときは天にも昇る気持ち。僕が大学に合格したとき、祖母が「天にも昇る気持ちだわ」と言って喜んでくれたのを思い出しました。あのあと就職氷河期が訪れ、仕事がなくて引きこもったり、就職してもブラック企業で酷使される人生になるとは誰も想像しませんでしたし、ダートムーアが数か月後に流産をして、その後、数々の試練を僕に与えるとは思いも寄りませんでした。天に昇ったあとは落ちるものなのでしょうか。

下村社長だって、順風満帆にここまで来たわけではありません。常にポジティブで想いのブレない下村社長に、いつも僕は励まされてばかりですが、彼の落ちていた時期を僕は知っていますし、相談してくれても、話を聞くことしかできませんでした。そこから彼は自らの力で這い上がり、今やパールシークレットを海外から導入した牧場主です。

パールシークレット×ダートムーアは夢と血と汗と涙の結晶です。僕たちが出会ってから10年以上の歳月が経ち、僕は出血しすぎて夢を失いかけていますが、とにかくこうして形になって世に誕生したわけです。可愛くないわけがありません。サラブレッドは可愛い可愛いではダメなのも頭では分かっていますが、この時期のとねっ子は可愛くて仕方ないのです。目尻が下がる文章になってしまうのを、どうか許してください。

あの頃に戻ったような感慨にふけりつつ、下村社長と慈さんと僕は、碧雲牧場の庭先で円くなって話し込みました。

翌朝、いつもどおり8時15分にエクワインレーシングに到着しました。福ちゃんのエクワインレーシングでの様子を見学するのは、おそらくこれで最後になります。もしかすると途中でリターンして北海道に戻ってしまう可能性もなきにしもあらずですから、絶対と言い切れないところが福ちゃんらしいですね。

瀬瀬代表は不在とのことで、マネージャーの松田さんの両手から溢れるほど、僕と理恵さんからたくさんのお菓子やコーヒーなどを託します。「これは八木さんの分で、これは新平さんの分で、これはヴィレッジのまなてぃさんの分、これは…」とサービス精神旺盛な理恵さんが延々と言付けているので、松田さん覚えてられるかなと心配しつつ(笑)、まあ僕たちの気持ちが伝われば良いかと思います。福ちゃんを受け入れてくれて、ここまで育ててくれたことに対する感謝です。

そしてエクワインレーシングでなければ、ここまで福ちゃんの調教の様子を撮影し、YouTubeチャンネルに公開することはできなかったはずです。自分たちのやっていることに自信と誇りがあるからこそ、こうして風通しが良く、オープンにいられるのでしょう。エクワインレーシングを選んで良かったと思います。

松田さんは別件があるとのことで、新平さんが案内を担当してくれました。「今日は周回コースを走ります」と冒頭で教えてくれました。これまで真っ直ぐ走るところしか見たことがなかったので、福ちゃんがコーナーを回って走るところを見られるなんて最高です。たまたまそういうプログラムなのか、それとも僕が最後の見学になるから取り計らってくれたのか分かりませんが、野暮なことは聞かずにいるのが大人ってものです。

ウォーキングマシンから始まり、馬装、準備運動(輪乗り)、そしてゲートを通り抜けるところまでは今までと同じ。いちばん狭いゲートも躊躇することなく通り抜け、福ちゃんは誇らしげな顔をしているように見えます。「狭いところ普通に通れましたね」と僕が言うと、新平さんは「特に何もしていないのですが、いつの間にかできるようになっていました」と謙遜して答えてくれます。人間だけではなく馬たちも、できなかったことが気がつくとできるようになっているのですが、その陰には新平さんや八木さんたちの地道な日々の積み重ねがあるのは確かです。

普段であれば坂路の入口に向かうところを、今日は砂利道を登りながら周回コースへと向かいます。人間の足だと大変だからと、新平さんは僕を車に乗せてくれます。少し登ったところに、1周300mのトラックが見えてきました。エクワインレーシングには坂路しかないと思っていたのですが、実は周回コースもあるのです。今日は300mコースを10周、計3000mを走るそうです。

周回コースでは、前に馬を置いて、周りのペースに合わせて走ることや手前を変えることなどを馬に教えるとともに、騎乗する人間にとっても、馬に乗る技術を鍛える練習にもなるそうです。坂路は誤解を恐れずに言うと馬に乗ってつかまっているだけで良いのですが、周回コースはハミのかけ方から鐙の踏み方まで、左右のバランス良く扶助しながら、馬を御して走らせなければいけません。変なバランスで乗ってしまうと、馬の身体のバランスも崩れてしまったりします。騎乗者の腕が問われるのが周回コースでの調教です。

「川崎競馬場を意識して左回りにしました」と新平さんたちが冗談で言ってくれます。曜日によって右回り、左回りを変えて、どちらも回れるように練習しているそうです。福ちゃんは左も右も問題なく走れているとのこと。「実戦を意識して2番手を走らせますね」とまた冗談が飛んできたので、「最後だけ先頭でゴールするようにしてください」と返します。

福ちゃんの前に2頭、福ちゃんは2列目の外、そして後ろに2頭がいる状態でコースを回り始めました。最初の何周かは、福ちゃんの左隣にいる馬が尻尾を大きく振ったり、尻っぱねをしてみたり、首を上げたりしてバカついてしまっているのが目立ちます。走りたくないのか、馬群から逃げようとしていて、左右にもブレて走るので福ちゃんは走りづらそうです。それでもきちんと走れている福ちゃんはさすがですし、隣の馬も周回を重ねるごとに観念して普通に走り出しました。馬たちはうっすら汗ばみ、鼻から息を吐く音を立てながら、最後の半分は隊列が揃って綺麗に回っていました。最後に一瞬だけ、福ちゃんが躓くシーンがありました。ヒヤッとしたのですが、「馬の止め際はよくあるんです」と、福ちゃんだけではなく馬は止め際が難しいことを新平さんは教えてくれました。あっという間に福ちゃんたちは引き返していきました。

調教が終わって、馬を洗っているとき、「何か後任の乗り役に伝えておくことはありますか?」と八木さんに聞くと、しばらく考えてから、「顔にシャワーをかけると嫌がって後ろに逃げるので、顔を洗うときはタオルか何かで拭いてあげてください」と返ってきました。てっきり、「左が少し硬いので、ほぐしながら乗ってください」とか「出だしがカタカタするので、ゆっくり温めてから乗り出してください」などの騎乗に関する専門的な引き継ぎがあるかと思いきや、顔を洗う時の注意点だったのがこれまた福ちゃんらしいですね(笑)。馬を洗っている際に質問したので、馬を洗うことに対しての質問だと勘違いしたのかもしれませんが、いきなり顔にホースで水をかけられるのが嫌な福ちゃんが可愛らしいと感じました。

馬房に戻って、福ちゃんと話していると、八木さんがヘルメットを取って挨拶をしてくれました。普通の馬よりも目が見えない分、リスクは高かったはずの福ちゃんにずっと乗ってくれて、育ててくれて感謝しかありません。ちなみに八木さんは、北海道乗馬連盟より【優秀人馬賞】を受賞したほどの腕前です。そんな八木さんに乗ってもらえて、福ちゃんは幸せですし、競馬場で走って恩返しをしなければいけませんね。

エクワインレーシングからの帰り道は、久しぶりに馬具ショップの「日胆サドラー」に立ち寄ります。以前にもこの連載で紹介しましたが、競馬とビリヤードとコーヒーがある、僕にとって至福の空間です。並べてある競馬本を見ていくと、「サラブレッド大辞典」があったので、「僕も少し書いています。これ2万部ぐらい売れているんですよ」と店長の白井さんに自慢しました。すると、「じゃあサインを書いてください」と言われたので書き、お店の前で写真を撮ってもらいました。

「門別競馬場に来た帰りの競馬ファンに寄ってもらえるようになりたい」とおっしゃるので、「ぜひ微力ながら宣伝させてもらいます」と話しました。こんなお店が家の近くにあったら、門別競馬の帰りだけではなく、毎日のように通ってしまいそうです。

その足でいつもどおり鵡川のラーメン「寳龍」に行きました。僕と理恵さんは味噌五目ラーメンを頼みました。理恵さんはいつもどおりブラックペッパーとホワイトペッパー、そしてにんにくをひと瓶、ぶっかけて食べます。最初は驚きましたが、もう見慣れた光景なので僕も何も言いません。「やっぱりこれだよね」と言いながら食べている理恵さんを見ながら、僕も心の中で、「やっぱり北海道で食べる寳龍のラーメンは最高だよね」と言います。

碧雲牧場に戻り、ラブブと再びラブラブしながら動画を撮り、慈さんに車で送ってもらって新千歳空港に向かいました。今年は受胎しない繁殖牝馬が多くて困っている中、どんな時でも明るく笑顔を絶やさない慈さんにはいつも感心させられます。苦しいときほど、人間の器の大きさが問われるのです。2頭の繁殖牝馬を抱えているだけでヒイヒイ言っている、おちょこのような僕には、とても生産者は務まりません。

(次回へ続く→)

あなたにおすすめの記事