
走り続けた一頭の馬がいた。
あとわずか届かずとも、悔しさを噛みしめて、またターフへと向かう。
晴れの日も雨の日も、酷暑も極寒も、陽を浴び風を受けながら、彼は歩みを止めずに挑み続けた。
勝利だけがすべてではない。新たな潮流が吹き抜ける中でも走り続けること、それもまた誇りだった。幾度の戦いを重ね、その名が刻んだ歳月はひときわ輝いていた。

その馬の名はスマイルジャック。
「笑顔を独占」という名前は、テレビ局の公募企画から生まれた。2歳でデビューし、9歳の秋、南関東で競走生活を終えるまで、通算58戦を走り抜いた彼は、数多のレースで記憶に残る走りを見せ、その名のとおり競馬場に多くの笑顔を生んだ。
父タニノギムレット譲りの真っ直ぐな流星を揺らし、首を下げて猛々しく走るスマイルジャック。その瞳の奥に宿っていたのは、揺るがぬ誇りだった。
スマイルジャックを語る上で欠かせない存在──それが、小桧山悟調教師だ。
師は多くの調教師や騎手を育て、2023年には馬事文化の発信に貢献した功績が称えられ、JRA理事長特別表彰を受賞した。厩舎からは青木孝文、小手川準、堀内岳志の3名が調教師として巣立っている。門下の原優介騎手は「小桧山先生に出会えていなかったら、騎手を辞めていた」と語るように、師の功績はJRA通算218勝という数字だけでは図り切れないほど大きい。
トーラスジェミニ、イルバチオ、カワキタコマンド、ジョブックコメン……約30年にわたる厩舎の歴史を彩った活躍馬たちは、いずれも息長く走った。 中でもスマイルジャックは群を抜いた存在だった。その活躍は、師を慕う関係者にとって希望そのものだったのかもしれない。

スマイルジャックの才能は2歳から煌めいていた。
新馬を制し、芙蓉ステークスといちょうステークスは2着、東京スポーツ杯2歳ステークスと若竹賞は3着。クラシックを目指すライバルと鎬を削り、常に「あと一歩」の競馬を続けた。その走りは鋭く才気に溢れ、そして荒削り。父譲りの気の強さで、時に騎手の静止を振り切って猛進した。陣営もファンも、その奥深い資質に希望を託し、実りの時を待った。
2月。クラシック本番を前にして、スマイルジャックは生涯のベストパートナーの一人、小牧太騎手と巡り合う。コンビ結成初戦のきさらぎ賞は2着。道中は中団の外目で折り合いに苦心しつつも、ゴール寸前まで粘り込んだ。数多の癖馬を御してきた園田の名手に導かれ、確かな手ごたえを掴んだ。
続くスプリングステークスは重賞ウイナー4頭に加え、オープン・G1でも好走歴のある馬が揃うハイレベルな一戦となった。パドックに現れたスマイルジャックはマイナス10キロ。意欲的な仕上げでクラシック本番の切符を狙っていた。
好スタートを切ったスマイルジャックは、出方を探り合う各馬を横目に果敢にハナを奪う。向正面で1番人気のショウナンアルバが掛かり気味に押し上げてくると、今度は小牧騎手は手綱を引き、相棒を宥めた。これまで見せてきた気性の激しさが嘘のように、スマイルジャックは静かに2番手に控え、力を蓄えた。
迎えた直線。脚が鈍ったショウナンアルバを競り落として先頭に立つ。ゴールを目指して急坂を駆け上がるスマイルジャックの内から、尾花栗毛をなびかせてフローテーションが強襲するが、スマイルジャックの余力は十分だった。持ちうる素質の高さを結果で証明し、クラシック候補に名乗りを上げた。
皐月賞ではスローペースに泣き、9着に沈んだ。しかし、評価が急落した日本ダービーで、スマイルジャックはひときわ眩い輝きを放つ。
果敢に飛ばしたレッツゴーキリシマとアグネススターチを見送り、絶好の手応えで3番手を追走。気負わず力を溜めて迎えた直線。残り250メートルで先頭に躍り出て、後続を突き放す。ライバルは遥か後方。ダービー制覇の栄光が目の前に迫る。
──勝った。
多くのファンがそう思った次の刹那、大外から風のように飛んできたのはディープスカイ。必死に粘るスマイルジャックだったが、その勢いの差は歴然だった。ゴールまで残り6完歩。世代の頂点に手をかけたその瞬間、栄光は指の隙間から零れ落ちた。
唇を噛みしめながらターフを後にする人馬へ、スタンドからは暖かい拍手が贈られた。初夏のターフには、誇らしさと悔しさが静かに漂っていた。
「ダービー2着馬」という誇りを胸に、スマイルジャックは走り続けた。
クラシックの戦いを終えると、舞台をマイル路線へと移す。
4歳夏の関屋記念で、もう一人の大切なパートナー、三浦皇成騎手と新たなコンビを結成。かつては先行粘り込みが身上だった彼が、この頃には末脚勝負を武器とする新たなスタイルへと進化していた。
直線、大外に進路を取ると長い新潟の直線を全力で駆け抜けた。同期の皐月賞馬キャプテントゥーレを抜き去り、マイルの雄・マイネルスケルツィを捉える。大器ヒカルオオゾラの猛追を振り切り、上がり3ハロン32秒5の豪脚で2つ目の重賞タイトルを掴んだ。
翌年、5歳となったスマイルジャックは六甲ステークスを制覇。春の大舞台・安田記念でも3着に食い込むと、翌6歳シーズンには東京新聞杯を制し、安田記念でも2年連続の3着と好走を重ねた。衰えが見え始めた7歳秋には京成杯オータムハンデであと一歩の2着。ファンを度々驚かせ、存在感を放ち続けた。
8歳秋には川崎へと転入。南関東では10戦未勝利に終わったが、それでも重賞戦線で戦い続けた。大きな故障もなく、スマイルジャックは長きにわたり一線級にその身を置き続けた。
2014年11月。川崎競馬場で異例の引退セレモニーが行われた。そこには川崎の山崎尋美調教師だけでなく、小桧山悟調教師の姿もあった。JRAと川崎、異なる場所で彼を見守り続けた両陣営が、その旅立ちを見届けた。

日が沈んだスタンド。
淡いライトに照らされながら、多くのファンに囲まれてスマイルジャックは第二の馬生へと歩み出す。
それは彼がどれほど愛されていたかを示す、何よりの証だった。

引退後、スマイルジャックは種牡馬として新たな道を歩んだ。2頭の仔を送り出し、短いながらも血を繋いだのち、東京農工大学馬術部へ。そしてその後は日高町のB.C.S.で穏やかな余生を送ることとなった。
その様子は時折、動画サイトに投稿され、ファンの心を静かに和ませている。
映像の中の彼は、広い放牧地の中でのんびりと草を食み、青空の下でたてがみを揺らしている。耳を柔らかく動かし、風の音に目を細めながら、ゆったりと時を過ごすその姿には、今も変わらぬ気品と輝きがある。そして、艶やかな黒鹿毛の馬体には、手厚く大切にされてきた日々が刻まれているようだった。
穏やかに流れる時を過ごすその姿に、胸の奥がふと暖かくなり、思わず頬が緩む。闘志を燃やして駆けた日々も、数多の喝采を浴びた瞬間も、今はすべて静かな記憶の奥へと溶け込んでいく。それでも、スマイルジャックは今も静かに私たちの心を照らし、これからもずっと、私たちに笑顔とぬくもりを届けてくれるだろう。
写真:Horse Memorys、あかひろ、ブロコレさん(@heartscry_2001)、@pfmpspsm