平成から令和へと元号が変わる少し前のある日、僕はとある資料を読み更けていた。
『東京競馬場開場当時の思い出 ──目黒から府中へ──』
昭和43年の2月某日、東京競馬場会議室で行われた座談会をまとめたものだ。
その座談会の主な出席者は、東京競馬場が府中に開設された昭和8年当時の関係者たち。
競馬場側の関係者が3名、そして府中町(当時)の関係者が7名。肩書は町助役、新聞記者、軍人、青年団長など、多様である。
現在もダービーなどの重大なレースが開催されている、近代日本競馬の礎を築いた場所。それをゼロからつくり始めた男たちの物語。どういうドキュメンタリーなのだろうか?
期待しながら、彼らの言葉に耳を傾けた。
ただ──その温度感は、僕の想定していたものとは異なる、少し不思議なものだった。
理想に燃える、東京競馬場の面々
1925年(大正14年)、東京競馬倶楽部の安田伊左衛門(のちの日本競馬会理事長)率いる面々は、オーストラリアへ向かっていた。
途中でマニラ、香港を挟んだ長い船旅である。
旅の目的は「日本に最適な競馬場はどのようなものか?」だった。
当時の日本競馬は、過渡期の中にあった。
競馬法の改正により馬券の販売が解禁された一方、目黒競馬場は土地の狭さや地代の値上げなどにより、より窮屈なものになっていたのだ。
この状況を打破するべく、競馬場の移転が検討され、その一環としてオーストラリアの競馬場を参考にする……という思惑があった。
シドニー、メルボルンと視察を重ねる中、ウォーウィック競馬場の形に感銘を受けた一行は、これをモデルに新たな競馬場づくりを試みる事とした。
そして、1927年(昭和2年)に競馬場移転に関する準備会が設立され、以降新競馬場の選定が行われていった。
広大な土地があった羽田、馬事公苑のある用賀など、候補地は約10カ所。
その中で評価が高かったのが、武蔵小金井と府中だった。
馬の強化の面で、土地に起伏のある武蔵小金井の評価も高かった。
しかし、最終的に選定されたのは府中。
馬に必要な綺麗な水がある、富士山を望める景色が良い……様々な理由はあったが、最終的な決め手になったのは「地元の人々の熱意が大きかった」ということだった。
座談会に出ている東京競馬場関係者は口をそろえて、このことを強調していた。そして、1928年(昭和3年)より土地の買収など、開場に向け動きは本格化していった。
町の進歩を夢見た、府中の人々
なぜ、府中町側は競馬場の誘致に熱心だったのか?
その理由を一言で表すならば「町が都市化から取り残される危機感から」である。
当時誘致する側だった府中町助役の栗林喜三郎の証言が、町の様子を的確に表している。
「府中は平凡な町で昔から発展もしませんで、その人口も増えず生産品もなかった」。
そんな町に、巨大な商業施設がやってくる。
発展の起爆剤になるのは、言うまでもない。
さらに、資金面でも大きなメリットがあった。
「特別寄付金」だ。
この当時、馬券(1枚20円かつ一人1枚まで!)を買う際に、50銭の税金が課されていた。しかも、その税金を納めた際に出る「証紙」も用意しなければ、馬券は買えない。
そんな手続きの煩雑さ故に、販売窓口の混雑が発生していた。
このトラブルを防ぐために、事前に競馬会側が税金に替わる「特別寄付金」を町に納めることにしたのだ。
目黒競馬場時代、納められた金額は年間で27,700円だった。
この金額は、1931年(昭和6年)当時、55,899円43銭の予算でやりくりしていた府中町にとって、とんでもなく魅力的に映ったことは間違いない。
当時在郷軍人会の副会長を務めていた渡辺紀彦によると、似た時期に移転の話があった府中刑務所は賛否両論だったが、競馬場は「町を挙げての運動だった」と語っている。
「競馬法改正」という誤算
期待に沸きあがる府中町。
──しかし、誤算は唐突に訪れる。
同じく1931年に競馬法が改正され、なんと「特別寄付金」の納付先が町から国に代わってしまったのだ。前年に懸案だった土地買収に目途が立ち、遂に建設へ……という矢先に起きた法改正だった。
このことに関して言えば、競馬会側からも代替の策は無かった。座談会の中でも、この話になったときは府中町側出席者たちの白けた反応が目立っていた。
田中(東京競馬場 顧問) 市長(矢部隆治氏/競馬場開場当時は書記)さん、制度として地元へまとまって大きな寄付ができないということになり、非常に地元にたいして申し訳ないというか、同情しなければならないという情勢に(東京競馬)倶楽部は置かれた。若干の寄付というものはなかったのですか。
矢部 それはなかったですね。(以下略)
小さくはなかった、亀裂と苦悩
かくして1933年(昭和8年)11月8日、東京競馬場がオープンした。
もちろん、競馬場を起点として経済は大きく動いた。開催日になると町には各地から観光客が押し寄せたり、場内の職員というかたちで地元に雇用も生み出した。競馬場周辺道路の売却金額を元手に、学校も1件建設された。
だが、やはり当初のモチベーションは「特別寄付金」だったのだろう。これがあったからこそ、「死線を越えて」と称された厳しい買収交渉にも人々は挑めたのである。
そういう経緯が原因なのか定かではないが、開場前後でも、様々なトラブルがあった。
地鎮祭の前には、会場のテントが何者かによって切り裂かれる事件が発生。また、オープン翌月にはコース内に大量の釘が撒かれ、競馬開催の危機に陥ったこともあった。
一枚岩だったはずの、競馬倶楽部側と町。
その間に距離が生まれる中、日本の近代競馬史は動き出したのであった。
そんな昭和の初めに開場した東京競馬場は、平成の時代も様々なドラマを生み出し、令和の時代へと続いている。もう私たちは、府中の街に競馬場が無いシチュエーションを想像することはできないだろう。
だからこそ、改めてそれを生み出した面々の言葉に、僕は現実を突きつけられた気分になった。
夢と理想をエネルギーにする者がいる一方で、現実的な利潤を追い求める者がいて、さらにその狭間で思い悩むものがいる──。
その異なる3つの動きを折り合わせた先に、僕らが愛してやまない「競馬場」という場所ができたのだ。
果たして、開場に奔走した当時の面々が、令和の東京競馬場……そして府中の街並みを見たとき、どのような思いを抱くのだろうか。
僕はまだ、その答えを、この資料の中から読み取れずにいる。
写真:緒方きしん
出典・多摩史拾遺記 府中市(東京都)編 1972年