翌朝、ふさぎ込んでいた気持ちは昨日よりはましになったものの、希望半分、落胆半分という気分です。まずは碧雲牧場まで行って、実際に片目の彼女に会い、ダートムーアにお疲れさまと伝え、牧場の皆さんや下村獣医師と話し合おう。話はそれからだと気持ちを奮い立たせ、羽田空港まで向かいました。新横浜駅からバスに乗り、高速に入ってしばらくしてふと窓から左手を見下ろすと、自動車が整然と並んでいます。同じ車種の黒と白の車が交互に、まるでオセロの駒のように、一ミリの狂いもなく。自動車メーカーの倉庫なのでしょう。検品も終わって、完成品としてこれから出荷を待つ車たちを見て、工業生産された車でも部品が足りなかったり、変形してしまったりしてここに並べなかった車もいるのだろうか、この中には昨日生まれたダートムーアの仔は入れないなあと僕は思いました。
新千歳空港に到着すると、慈さんの奥様である理恵さんが迎えに来てくれていました。こんなときにも理恵さんの底抜けの明るさには救われます。車中ではもちろん左目が見えないとねっ子の話になりました。
「私たちは繁殖牝馬が高齢になって子どもを産めなくなってしまうと、どうしても手放さなければならないときがくる。それは生産牧場を続けていく上では仕方ないことだけど、申し訳ない気持ちがどこかにあって、今回は罪滅ぼしじゃないけど、せっかく生まれてきた命を何とかして守りたいと感じた。馬に食べさせてもらっているという気持ちは忘れてはいけないと思っている」と彼女は言います。
割り切らなければならないのが仕事の宿命だけど、割り切りたくないときもあるということなのでしょう。サラブレッドの生産を生業としてやっている以上、どこかで線引きをしたり、ルールを決めておくことは必要になってくるのは分かりますが、何でもかんでも割り切る必要はないと僕も思うのです。じゃあ、同じように来年も奇形の馬が生まれたらどうするのかと問われたら、もしかすると処分するという選択をせざるを得ないかもしれません。仏教家の親鸞は、行きは物乞いに恵みを与えたが帰りは施さなかったことを問われ、「行きと帰りは違ってよい」ということを言っていますが、つまりそういうことです。そのときに考えて、そのときにできることや正しいと思う選択をすればよいのです。
今回、僕がダートムーアの娘を処分しないという選択ができたのは、牝馬だったからという理由があります。競走馬にはなれなくても繁殖牝馬にはなれるかもしれない。可能性があるならば道をつくりたいと思ったのです。ただ、今回生まれてきた仔が牡馬だったら、僕はかなり迷ったはずです。理恵さんによると、牡馬であれば乗馬になったり、あて馬として生きていくこともできるそうですが、さすがに片目が見えない馬よりも健常な馬の方が乗馬になりやすいでしょうし、繁殖牝馬の発情を促すあて馬も今は置いている牧場の方が少なく役割が限られています。そう考えると、ダートムーアの仔が牝馬であったことは幸運でした。
もうひとつ僕にとってラッキーだったのは、種牡馬がタイセイレジェンドだったことです。ほとんどの奇形の馬たちが当たり前に処分されてしまう理由として、種付け料の問題があると思います。たとえばエピファネイアを配合していたとすれば、その子が売り馬にならないとすれば、種付け料の1800万円は丸損確定です。その場で処分して、フリーリターン制度を使えば、来年、種付け料はかからずに健康なエピファネイア産駒が生まれてくるかもしれないのです。産駒が売れる時期は1年遅れますが、1800万円がなかったことになるより良いでしょう。僕も(あり得ませんが)エピファネイアの仔であれば、今年は目をつぶって来年に賭けようと考えたかもしれません。種付け料が30万円のタイセイレジェンドであったからこそ、そうした損得勘定をすることなく決断できたのだと思います。何が言いたいのかというと、僕が聖人君子だからではなく、あらゆる条件がたまたま重なったからこそ、彼女に生きてもらうという選択ができたということです。
片目が見えないので、理恵さんが「独眼竜正宗だから、名前は正宗、いや女の子だから正子」と仮の呼び名をつけてくれたようですが、他の牧場スタッフには勇ましすぎるのか不評のようで(笑)、「治郎丸さん、良い名前をつけてあげてください」と言われました。競走馬になる馬たちは1年ちょっとで牧場から出て行ってしまうので、親の名前で仔馬も呼ばれることが通常ですが、競走馬になれないとすれば、このまま牧場にずっといる可能性が高く、ちゃんとした呼び名がほしいということです。「ヘレンケラーのヘレンでもいいかも」とか、「聖母マリアのマリア」などとアイデアを出し合いながら、僕たちは雪道をゆっくりと進みます。
碧雲牧場に到着すると、つい先日にドカ雪が降ったようで、3月に入ったにもかかわらず、ふかふかの雪があたり一面に積もっています。この日は風も強く吹いていて、とにかく寒い。僕の鼻も敏感に反応して、一気に通りが悪くなり、詰まり始めました。そんなこと言っている場合ではなく、とにかく今日はダートムーアの元には立ち寄って、お疲れさまと伝えなければいけません。慈さんのお母さまに挨拶をして、今回の出産のことを聞いているうちに、牧場のスタッフさんたちも集まり始めましたので、まずは夕飯を食べてからその後、厩舎を訪ねることにしました。
慈さん、理恵さん、慈さんのお母さまの公恵さん、そして住み込みのスタッフのみづきさんとみゆさんが揃ったところで、夕食はスタートしました。いつも北海道の家庭料理を楽しみにしており、何を食べても美味しいのですが、今日は手巻き寿司です。夕食の席でもやはり昨日のお産の話になりました。碧雲牧場にとっても、今年初のお産だったそうです。
皆と話していて感じたのは、ダートムーアの娘を生かすことに対し、慈さんから全会一致とは聞いていましたが、誰もがそう本心で思ってくれていることです。もし僕が生きてもらいたいと願っても、毎日、世話をしてくれるのは牧場の方々ですから、慈さんや彼女たちにその気持ちがなければ上手く行きません。こうして皆で顔を合わせて話してみたことで、自分の選択は間違っていなかったと確信しました。
「最終的に決めるのは治郎丸さんだから」と慈さんは皆に話していてくれたようですが、僕としては皆さんが生かしたいと強く願ってくれたからこそ、最終的には決められたのだと思っています。奇形に生まれてきた馬を育てることにひとりでも反対する人がいれば、僕の決心は揺らいでしまったかもしれないのです。片目が見えなくても、碧雲牧場のみんなに囲まれて過ごすことができれば幸せなのではないかと僕は感じました。
みづきさんがダートムーアの娘の誕生祝いとしてショートケーキをつくってくれました。馬の顔の形をした飾りつけがされています。「あれっ、ちゃんと両目がついてるよ」と僕がブラックジョークを言うと、「私たちにはこう見えていますから」とすぐに返ってきました。障害や病気があってもなくても、碧雲牧場の皆さんは、同じように接してくれるのではないかと感じた瞬間でした。
「そろそろ行きますか」と慈さんの声をきっかけに、夕食後にのんびりとしていた僕たちは腰を上げました。夜飼いに付き添う形で、僕はダートムーア親子のもとへと向かいました。耐え難い寒さの中ですが、夜空を見上げると北極星が美しく光っています。
ダートムーアは珍しく気が立っているようでした。馬房の中にいる彼女に「ムーアお疲れさま」と声をかけると、僕に対して耳を絞って、鼻先にも触らせてくれません。今日は風が強くて危なかったので外に出さなかったと聞いており、出産日を入れて2日間、馬房に閉じ込められていると思っているダートムーアはストレスがたまってイライラしているようです。そんなこともあろうかと、ムーアの好物である人参を持ってきました。食べ物で気を紛らわせてもらいながら、僕はかろうじて鼻づらを撫でさせてもらいます。
それから、傍らに立つ女の子に目をやりました。左側から見ると、何の違和感もありません。むしろ1つ上のお姉さんが生まれたときよりもひと回り大きく、骨格もしっかりとしているような気がします。お姉さんはムーアママの後ろに隠れていましたが、この子は僕たちを警戒する素振りはありません。左目が見えないからでしょうか。それとも、ただ単に性格的な理由でしょうか。馬の左側に回って、近づいて見てみると、たしかに半分ほどしか開いておらず、しかも黒目の部分がわずかしかありません。うっすらとでも見えていないのかと思いましたが、獣医師の診断では光に対する反射がないので見えてないということでした。
ダートムーアが早く出ていってくれという気配を出すので、僕たちは大人しく退散することにしました。明日ゆっくりと見せてもらえばよい。明日こそは外に出て、妊娠・出産から一時的に解放されたダートムーアには思いっきりストレスを発散してもらいたいですし、ダートムーアの娘にとっては初めての外出になります。
星が最も綺麗に見えるのは、僕たちが暗闇の中にいるときです。かつて大島を旅行して、星を見るツアーに参加したとき、案内人の人がそう言っていました。東京は周りが明るすぎるから星が綺麗に見えないけれど、大島の山頂は夜になると真っ暗になるから、こんなにも星が美しいのだと。さらに、星が放つ光はかなりの時間を経てから僕たちの元に届く、ということも教えてもらいました。北極星から地球までの距離は431光年と言われており、1光年とは光が1年で進む距離ですから、今僕たちが観ている北極星の光は431年前に放たれたものです。さすがにそれは極端なたとえだとしても、今回、僕たちの決断や行動によって生まれた光も、いつか誰かを照らしてくれるのではないでしょうか。
(次回へ続く→)
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