[阪神JF]夏の小倉で出会った原石、アインブライド。

1997年11月30日。

第49回阪神3歳牝馬ステークス、現在の阪神ジュベナイルフィリーズは大混戦を極めた。
最後の直線、人気各馬がもがきあう中、内ラチ沿いから1頭、白い帽子が突き抜けてきた。

1枠の白帽子。逃げた1番エイシンシンシアナではない。
夏の小倉で見たゼッケン番号2番、アインブライドだ!

思わず家でテーブルを叩きながら「吉洋! 吉洋!」と大声を出してしまった。
赤トンボが舞う小倉競馬場で、冬の約束を誓った走りを見せたアインブライドが、3歳女王の座に輝いた瞬間だった。

夏の小倉での出会い。

アインブライドを初めて競馬場で見たのは、1997年8月30日の小倉競馬場、3歳新馬戦であった。
当時はいわゆる「折り返しの新馬戦」として、1開催中に新馬戦を負けてももう1度使える制度があった。

僕は千葉県在住。旅競馬として、自身2度目の小倉競馬場行脚であった。
旅の目的自体はストレートで、まずはこの年の秋に廃止される信越本線碓氷峠越えのお別れ乗車。
そのついでに、休みが長く取れたものだから、せっかくの休暇を近辺で過ごすのも実にもったいなかろうと、同じくこの夏開催でスタンド改築工事により、2年後の1999年までお別れになる小倉競馬場へもう一度行ってみようと。

そしてこの頃は、小倉競馬場で施行されていた九州産馬限定競走「霧島賞」、「たんぽぽ賞」がそれぞれ地方競馬場での開催に移行されるタイミングで、ならば同じく九州産馬限定競走「ひまわり賞」はどうなるのか。ならばその日に小倉競馬場へ出かけてみようということで旅程を組んでいた。
つまり、アインブライドとの小倉競馬場での出会いは、全くの偶然なのであった。

アインブライドは1997年8月9日、小倉競馬場芝1200メートル戦で2枠2番としてデビュー。中団につけてレースを進め、最後はラスト600メートル35秒4の脚を繰り出して前2頭を追いかけたが、並びかけたところがゴール。後に重賞勝ち馬となるメイショウオウドウ、次いでゴールドクレイスに続いての3着であった。

迎えた8月30日の新馬戦。芝1200メートル。
またしてもデビュー戦と同じ2枠2番。
前走の末脚が評価され、単勝式は2倍を切る圧倒的な人気。
パドックを見ていても、これは1頭アインブライドの馬っぷりが抜けているかなあ……ということをおぼろげながらではあるが覚えている。レースは中団に位置取り、前走と同じような末脚を繰り広げ、勝ち時計1分10秒4で快勝。自身の末脚はラスト600メートルが34秒7だった。
逃げて2着に粘ったゼンノシチョウのラスト600メートルが36秒7。上がりの時計が2秒も違えば、前に行った馬が止まって見えてしまうように思えた。

──この馬は走る。僕はそう直感した。

なにか予感めいたものがあったのは確かだった。少なくとも、良い才能を見つけたぞという高ぶる気持ちがあったのは間違いない。ただ、関東にいては、関西の新馬戦勝ち馬までは情報を取れても、その後を追うのはなかなかに難しいものがあった。

「私を見ていてね。間違いないから」
彼女はそうしたメッセージを発しながら歩いていたのかもしれない。

僕は旅を終えて千葉に戻ると、当時の競馬好きの芝居仲間に、「栗東にアインブライドという馬がいる。この馬は絶対に走るぞ」と触れて回った。まるで自分がすでに天下を取ったかの如くの気持ちであったが、小倉で宝物を見つけたかのようなうわついた気分は、なかなか出会うことはできない感覚だった。その後もあそこまで「原石に出会えた」と思えるような新馬戦には、なかなかお目にかからなかった。僕がなかなか競馬場に行けない立場だったことも後押ししたのかもしれない。

秋から冬へ。誓いは必ず。

アインブライドは次走、9月27日の3歳オープン野路菊ステークスに、5枠8番として出走。
2戦目の新馬戦の内容が評価され、小倉3歳ステークス3着のビッググランプリに次いで2番人気に推された。
スタートすると道中は中団やや後ろのインコースで、息を潜めるように待機。直線を向いてからはインコースをスルスルと上がってきて、2着ユノプリンスに1馬身4分の1の差をつけて快勝した。

──間違いない。
アインブライドは馬群を全く気にすることがない。
これは大きな武器であると感じた。

その後アインブライドは、強敵ロンドンブリッジがいるKBSファンタジーステークスに、5枠6番として駒を進めたが、いつものように中団やや後ろから進んだものの伸びきれず、ロンドンブリッジ、シンコウノビーの前に7着に敗れる。

そして、日本への種牡馬入りが決まっていたピルサドスキーのジャパンカップ勝利に沸いた翌日。週末の楽しさは月曜日から始まる。今週のメインレース、阪神3歳牝馬ステークスの競馬週刊誌を手に取るや、僕は興奮を覚えた。

──出走予定馬の中に、アインブライドの名前があったのだ。

状況は混とんとしていた。
KBSファンタジーステークスを圧倒的な支持を集めて勝利したロンドンブリッジが回避したことで、各馬にもチャンスがある大混戦模様を呈していたのだ。なにせ出走メンバーの中に、オープン特別勝ちはあっても、重賞勝ち馬がいないというのだから、大混戦になるのもむべなるかなという状況である。
金曜日に、阪神3歳牝馬ステークスの枠順が決まる。

……何かの思し召しでもあったのだろうか。

彼女の枠順はまたしても1枠2番。
新馬戦を2度戦ったゼッケン番号と同じ番号なのであった。

レースの1番人気は、前走ファンタジーステークスを2番手からレースを進めて、ロンドンブリッジには負けたものの2着を死守したシンコウノビー。2番人気には、牡馬と一緒に戦うデイリー杯3歳ステークスで2着と渡り合った関東馬サラトガビューティ、3番人気には府中のサフラン賞勝ち、ファンタジーステークスも3着であった、これも関東馬ダイワリプルスであったが、何がハナに行くのか。展開予想からして全くの大混戦であった。

スタートは抜群だった。普通の若駒であったなら、そのまま行かせる以外の手はない。当時は外回りコースがない阪神1600メートル。1枠2番。すぐに2コーナーがある。引いたら外枠各馬から一斉に包まれる。好発を決めたなら、その流れに乗るのがセオリーだろう。
しかし、当時デビュー2年目、花の12期生の一人、古川吉洋騎手は、馬群で揉まれても全く苦にしないアインブライドの気性を熟知していたようだった。

内からハナを主張した武豊騎手・エイシンシンシアナにあっさりとハナを譲ると中団やや後ろまで馬を自然に引いて行った。これを見るや外から飯田祐史騎手・メイショウアヤメがハナを叩きに行こうとするもハナを奪えず2番手、更にクリミナルシチーまで絡んでいく。一見すると前3頭は折り合っていたかのように見えていたが、ラップタイムは異常を示していた。

最初の1000メートル通過は58秒9。
パンパンの良馬場で強い馬が先頭に立っていたなら、今でこそそれほどの速い数字とは思えないであろう。しかし、オープン競走勝ち馬までの経験しかない彼女たちにとっては、前日朝まで降っていた雨とも相まって、良馬場とはいえパンパンとは言えない芝コース、前半58秒9のラップタイムは、数字以上の激流だった。

サラトガビューティとダンツシリウスが先頭集団を目がけて上がっていくと、最初にクリミナルシチーが脱落、メイショウアヤメもエイシンシンシアナも一杯。しかし後続各馬も伸びあぐねている。間からキュンティアも追い込んでくる。

そこへ1頭、内ラチ沿いを目がけて猛然と追い込んできた馬がいた。
1枠の白帽子。逃げて展開を作っていたエイシンシンシアナではない。
2番、古川吉洋とアインブライドだ。

──今だ。小倉で誓った活躍の瞬間だ!!

「吉洋! 吉洋!」

僕はテレビ前の机をバンバン叩いた。後で母親に叱られたのは言うまでもない。
2着には高橋亮騎手のキュンティアが入り、なんと花の12期生ワンツーフィニッシュ。ゴール後に行われた二人のハイタッチは、当時の競馬界ではいろいろな話題が巻き起こった。
花の12期生の中でも、初G1勝利を挙げたのは、古川吉洋騎手であった。

前半1000メートルが58秒9、ラスト600メートルが36秒9。皆が脚が上がっている中、レース2番目のラスト36秒5の脚を見せたアインブライド。
「馬込みを全く気にしない馬だから安心して乗っていられました」と古川騎手はインタビューで号泣。
おそらくはほかの騎手では真似のできない、一頭の馬と一人の騎手の世界が、彼女と彼を勝利へ導いたのではないだろうか。

そのごアインブライドは翌春の活躍も期待されたものの、思うような成績も上がらなかった。古馬になってからはダートに活路を見出そうと船橋競馬場の交流重賞マリーンカップに遠征をしたものの、そこでも満足のいく結果を上げられず、1999年6月27日のマーメイドステークスを最後に現役を引退した。

お母さんとなるべく北海道へ旅立った彼女。
その一生はの結末は、あまりにも早く訪れた。
繁殖牝馬としては1頭の産駒を残し、2002年3月28日に、天国へと旅立ってしまったのである。

赤トンボが舞う夏の終わりの小倉競馬場で、活躍を誓ってくれたアインブライド。
旅競馬からの出会い。
あの夏を、アインブライドを、僕は一生忘れることはない。
ありがとう。アインブライド。

写真:かず

あなたにおすすめの記事